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名古屋・広隆堂ブログ
名古屋から発信する、少し偏った情報と管理人の徒然なる平凡な日記。乗り物・旅・名古屋の情報・時事ネタ・テレビ・ラジオを中心にあれこれ思うことを書き綴ります!がんばろう、日本!がんばろう、東北!そして、がんばろう、自分。
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広隆堂(こうりゅうどう)

Author:広隆堂(こうりゅうどう)
FC2ブログへようこそ!
1976年10月26日名古屋市千種区生まれ。小学校卒業まで名古屋で暮らし、中学・高校時代を岐阜の山奥で過ごす。都会へあこがれ、大学卒業後、名古屋へ舞い戻る。乗り物と旅行、そして中日ドラゴンズを心から愛する。
 子どもの頃からモノ集めに凝っていたが、最近はポイント集めに凝っており、特に航空会社(ANA・JAL)のマイル集めに熱中している。
 人と同じ事をするのが苦手。協調性が無いせいもあって集団で浮きやすい。できないことを無理にするのは疲れるので、典型的なオレ流・ワンマンだとよく言われながら、迷惑をかけないように好き勝手にやっています。
【「広隆堂」の由来】
 「こうりゅうどう」と読んでください。名前は本名の姓名から一字ずつ頂き、人が集う意味のある字「堂」を加えたものです。コミュニケーションの場として活性化されることを願って名付けました。古臭い名前ですが、本人はかなり真剣に考えて付けました。

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2011東北冬紀行7・仙台市若林区荒浜
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 12月27~30日にかけて訪問した東北探訪シリーズの7回目。今回から宮城県内の模様をお届けします。画像が多くなります。また、震災被害の様子が多くなりますのでご注意ください。
 12月29日朝、仙台市内でレンタカーを借り、気仙沼方面に向けて出発です。まず向かったのは、津波で甚大な被害を受けた仙台市若林区荒浜です。
 仙台市中心部からクルマで走ること10分ほど。若林区に入ります。若林区は仙台市を構成する5つの区のうちの1つで人口は約13万人、面積は約50平方キロメートル。仙台市南東部に都心から太平洋までカバーする区で都心部・郊外部・工業地帯・田園部・海浜部と多彩な顔を持つ地域です。
 仙台市都心より海岸に向けて走り出しましたが、住宅街を走っていると街は何事も無かったように平穏としていますが、よく見ると電柱が傾いているのが分かります。これも地震の影響だったのでしょうか。
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 国道4号線を過ぎると家もまばらになり、徐々に農村風景に入っていきます。非常に気になるバス停があったので撮影。この近くで仙台市を代表する河川「広瀬川」が名取川に合流しています。この先に高架の道路が見えてきます。国道6号線のバイパスである「仙台東部道路」です。この高架が防波堤の役割を果たし、津波の被害を防いだといわれています。
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 高架脇には瓦礫が残っていました。地震発生後、このエリアでは避難する人のクルマが殺到し、仙台都心部へ向かう道路は軒並み大渋滞。更に停電してしまったので信号も機能せず、この辺りはパニック状態になったそうです。そして、津波が到達。間に合わないと思ったドライバーはクルマを道路に捨て、着の身着のままでこの土手を駆け上がり難を逃れた方がたくさんいました。その模様は「NHKスペシャル」でも放送されていたので、私も印象に残っていました。
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 仙台東部道路を過ぎると風景は一変します。典型的な田園風景なのですが、道路両サイドの田んぼの土は黒ずんでおり、耕作の形跡がありません。仙台東部道路から海寄りの地域は、津波による塩害で耕作不能になってしまったわけです。また、海岸地域では地盤沈下もあり、マンホールが道路の真ん中で飛び出している所がいくつもありました。この近くでクルマのお腹を擦ってしまいました。屋根が破損しているところを見ると、5m近い大津波がこのエリアを襲ったとみられます。
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 遠くに海岸の松林が見えると、荒浜地区に到着です。
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 荒浜地区には海岸沿いに仙台港の工業地帯と仙台空港を結ぶ県道10号線が通じているため、大型トラックも進入できる立派なガソリンスタンド。ガソリンスタンドは災害発生時にも対応できるように頑丈な構造になっていると聞いたことがありますが、津波によって全壊していました。
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 県道10号線を越えて海岸最前線の荒浜地区。言葉を失い、しばらく茫然と眺めていました。瓦礫は片付けられていましたが、住宅の基礎部分を残し津波に流されてた荒浜地区。基礎部分がこの辺りに集落があったことを教えてくれています。震災前に荒浜地区には800世帯・約2,700人の方が暮らしていたそうですが、電柱が無いところ、このエリアには住民が戻っていないということです。住宅を再建している様子もありませんでした(どうも、規制がかかって建設できないらしい)。
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 荒浜小学校。学校の体育館は災害発生時に避難所となることが多いですが、津波によって体育館の上部が破損しています。津波で校舎2階まで冠水し、体育館は水没したそうです。この学校に避難した約500人の方は校舎の3階・4階・屋上に逃げ、自衛隊によって無事に救助されたそうです。海岸沿いでは体育館でも危険であるという判断が、荒浜地区住民の命を守ったと言えます。
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 海岸に並ぶ松林も津波で流されてしまったようで歯抜けになっています。そんななか、松林の下で津波に耐えた小さな鳥居が印象に残りました。津波で犠牲になった方、さぞ無念だったことでしょう。そして、難を逃れた方も財産を失い大変かと思います。テレビで何度か見た荒浜の光景ですが、現地を実際に訪れて改めて感じた震災の爪痕。思わず涙が出てきました。
 この画像を撮影した場所の脇に供養塔が立っていました。ここへやってくる人が後を絶たず、私も手を合わせてきました。そして、海岸線に立ちます。
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 荒浜地区深沼海岸。仙台市唯一の海水浴場として、夏場は賑わうのだそうです。
 私が荒浜地区を訪れることにした理由は、震災発生当初に「荒浜に200~300体の遺体が打ち上げられている」という、TVのニュース速報に飛び込んできた一報で記憶していたことからでした。「この地震の被害は甚大である」、直観的に思いました。そして、この速報は情報が錯綜するなかで、その後犠牲者が爆発的に増えていく前触れでもありました。
 この前日、夜に仙台市の繁華街である一番町や国分町を歩きました。夜11時過ぎでも賑わい続ける東北最大の繁華街の人通りは名古屋の栄以上で、これを見ているだけなら既に復興しているのではないかと錯覚してしまうところですが、同じ仙台市内でも都心からクルマで20~30分、直線距離で10㎞ほどのエリアでは、地域が壊滅し復興の目処も立っていない、このような風景が広がっていることを知っていただきたいです。

テーマ:東北旅行 - ジャンル:旅行

2011東北冬紀行6・磐越東線
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 12月27~30日にかけての東北旅行シリーズの6回目です。
 8時間近い、いわき市の滞在を終えて、17:40発の列車でいわきを離れました。この日の宿泊地は仙台。4時間近い列車移動です。その中で印象に残ったのが、このJR磐越東線です。
 磐越東線(ばんえつとうせん)は、福島県いわき市のいわき駅から郡山市の郡山駅までを結ぶ線路で「ゆうゆうあぶくまライン」の愛称が付けられているそうです。

 この鉄道の目的は常磐炭田の石炭輸送かと思いきや、いわき市の常磐炭田の石炭輸送は常磐線により水戸方面に送られていたことから、この路線はいわき市などの福島県浜通り地方と郡山・福島方面の福島県中通り地方を結ぶローカル輸送が軸だったそうです。
 ところが、1995年に磐越自動車道が沿線に並行するように開通し高速バスが営業を始めると、いわき~郡山間における運転本数や所要時間、運賃でもバスが優勢(磐越東線が上下12本・1時間38分・1,620円に対し、高速バスは上下45本・1時間30分・1,500円)となってからは鉄道による通し利用は激減し、小川郷~小野新町間の峠を越えて全線を通しで利用する形態は少なくなったそうです。
 この日も4時間半ぶりに走る列車に乗り込みましたが、高校生以外のお客さんは少なく場末のローカル線状態でした。列車も郡山~小野新町間と、 いわき~小川郷間でお客さんが入れ替わります。
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 私が乗った列車は小野新町止まり。この駅で20分後に来る郡山行に乗り継ぎます。雪が舞う寒いホームで待たされるのかと思いきや、「寒いですから、列車が来るまで車内でお待ち下さい」と運転士氏からのご厚意に甘えさせていただきました。まぁ、この電車も郡山からの列車の接続待ちだからできることなんですけど、こういう小さな心遣いが非常に温かいです。
 名古屋辺りでは、寒風の中でもすべてのドアを開けっ放しで底冷えのする電車がざらにあります。正直、電気の無駄遣いにしか思えません。限りある資源をどう効率的に使うべきか、鉄道会社はもう少し考えるべきです。

テーマ:鉄道旅行 - ジャンル:旅行

2011東北冬紀行5・いわき湯本温泉
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 12月27~30日にかけて訪問した東北探訪シリーズの5回目。今回は旅の話らしく温泉の話を。
 昨夜からの旅では、3時間ほどの仮眠以外は移動の連続。更にいわき市で約2km、広野町で約7km歩き、汗もかきましたので温泉に行くことにしました。いわき駅から1駅。湯本駅に到着です。
 湯本温泉は那須・有馬・道後・玉造と並んで日本三古泉の一つとして知られます。三古泉なのに5つもあるというのは、資料によって諸説あるためです。湯本は江戸と仙台を結ぶ浜街道の温泉宿駅として栄えました。この辺りは地層が断層で断絶し、温泉鉱脈が盆状構造となったために温泉が滞留し、滞留した温泉が断層の割れ目から地上に自然に湧出する構造だったそうです。この地域では自然湧出する場所を「湯壷」として整備し、自然の恵みを生活に活かしていたそうで江戸時代には53もの湯壷が存在したそうです。

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 幕末から昭和40年代までの120年間は、この地域は本州最大の常磐炭田地帯として栄えました。石炭1トン掘るたびに温泉が20トンも湧いてくるため、お湯は捨てるほどあったわけです。ところが、中央資本による石炭産出の影響で温泉水脈の水位が下がり、遂に大正8年に一度湯本温泉の湯壺は枯渇。昭和17年までの21年間は温泉の出ない温泉街としての苦しい時代もあったそうです。
 戦後、エネルギー革命により昭和51年に常磐炭鉱は全面閉山。温泉会社が新たに掘った新源泉から毎分5トンもの膨大なお湯が湧き、現在の温泉街が形成されています。常磐ハワイアンセンター、現在のスパリゾートハワイアンは、いわき湯本温泉最大のリゾート施設として有名です。この施設は常磐炭田閉山後に造られた施設です。数年前、話題となった映画「フラガール」の舞台がこの湯本温泉です。常磐炭田閉山からのいわき市がどう地域振興を行うかを描いています。
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 JR湯本駅前で待つ路線バス。いわき市をはじめ、福島県浜通り地方では新常磐交通というバス会社がバス路線を展開しています。
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 側面の小さな「新」の字が印象的です。だったら、「旧」常磐交通はどうなったのかというと、多額の債務を抱えていたことから、2006年2月1日に子会社の「常交中小型自動車」へ営業譲渡。社名を「新常磐交通」に改称し、100%株主で東京のタクシー会社である「グリーンキャブ」の傘下となって、再出発しているバス会社だそうです。なお、グリーンキャブは長野県のバス会社千曲バスも傘下に入れているそうです。
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 駅前の街並みを歩くと、温泉街独特の雰囲気があります。さすが、日本三古泉だけのことはあります。そして、温泉街を象徴する建物がこの「温泉神社」。
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 この神社、平安末期に完成した「延喜式神名帳」という文書に「陸奥国磐城郡温泉神社」の記載があり、この神社は千年以上の歴史を持つ神社なのだそうです。
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 今回のお風呂は地元の温泉銭湯「さはこの湯」に行きました。さはこの名は湯本温泉のかつての俗称「三函の湯」によるもの。今の施設は1995年オープン。火の見櫓を模した変わった建物だ。中は思ったより狭く、公営温泉らしい雰囲気。自動券売機で券を買い受付に出す。入場料220円! 浴室は岩風呂の「宝の湯」と檜風呂の「幸福の湯」があり、この日は宝の湯。
 よく室内は程良い硫黄臭。含硫黄-ナトリウム-硫酸塩・塩化物泉、源泉の泉温59.7℃の源泉かけ流し。WEB上では「湯が熱い」というレポートが多いが、時期的なモノもあってか適温。大浴槽が中央にあり、それに続く小浴槽が左手にある。右手にも2人程度の熱湯の浴槽がある。天井はやや低く湯気が籠り結構暑い。湯はさらりとしており、ヌルヌル感は無い。カランの湯まで温泉なのは、湧出量の多い証拠。さすが湯本温泉。
 滞在時間は夕方の40分ほどでしたが、その後も湯冷めせずに夜まで体を温めることができました。

テーマ:東北旅行 - ジャンル:旅行

2011東北冬紀行4・福島県双葉郡広野町2
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 12月27~30日にかけて訪問した東北探訪シリーズの4回目。2回シリーズでお届けする福島県双葉郡広野町の後半です。現地の様子をご覧いただきたく、画像が多めとなります。
 福島第一原発の警戒区域最前線にある検問所から、再び広野駅に戻ることにしました。当初の予定では、広野町滞在予定時間は次のいわき行き電車発車時刻までの1時間半だったのですが、この時点で既に1時間を経過しており、広野駅までの3.5kmを30分で走破する体力も無いことから、1時間半後の電車に遅らせることに決定。その時間を広野町の散策に充てることにしました。
 検問所からの帰り道は集落を通る旧道ではなく、国道6号線をしばらく南下しました。しかし、そこの広がる風景には、生活の匂いが失われていました。電柱は傾いたまま。耕地も手入れがされていないと荒れ果ててしまいます。
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 中心部に戻り、中学校のある高台から広野町を眺めようとしたら、こんな碑が。
 童謡「とんぼのめがね」、懐かしいですね。この曲は広野町に在住していた医師で作詞家でもあった、額賀誠志が昭和23年に造った詞に曲がつき、昭和24年にNHKラジオで放送されたことで有名になった曲だそうです。
 きっと、広野町の長閑な風景を眺めながら作曲していたのでしょうね。
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 よく見てください。JR常磐線の向こう側、ある部分から海寄りには何もありません。あのエリアはどうなっているのか、行ってみました。
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 JR常磐線の踏切を越えるとその風景は一変していました。つまり、広野町はJR常磐線の線路が事実上の防波堤となり、線路を境に明暗を分けていたのです。既に基礎部分も含め住宅は片付いていましたが、TVアンテナが立っているところ、ここに住宅があったことを示しています。
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 更にそこから200mも進むと、両サイド何もない無の空間が広がっていました。
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 基礎部分を残し、津波で流されてしまった家屋。
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 ガードレールの曲がり方や、道路の破損状況は震災当時のままでした。
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 普段は穏やかな海だったはずですが、あの日から半年以上も経過しているのに津波の痕跡が残っていました。
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 長いようであっという間だった広野町での3時間。メディアで取り上げられない小さな街ですが、ここには地震被害・津波被害・警戒区域最前線が集中するしており、私は東日本大震災の縮図を見た気がしました。広野町の姿をしっかりと目に焼き付けて、いわき行き電車に乗り込みました。

【追記】
 福島県広野町役場が2012年3月1日より、広野町内で住民の帰還を促し本格的な除染を進めるため、元の庁舎に役場機能を復帰させました。役場が移転した福島県内9町村のうち、元の庁舎に戻ったのは広野町が初めてとなります。
 広野町のキャッチフレーズは「東北に春を告げるまち」。文字通り、広野町は被災地に春を告げ、復興に向けて動き出しています。 

テーマ:東北旅行 - ジャンル:旅行

2011東北冬紀行3・福島県双葉郡広野町1
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 12月27~30日にかけて訪問した東北探訪シリーズの3回目です。今回から2回に分けてで福島県双葉郡広野町を取り上げます。現地の様子をご覧いただきたく、画像が多めとなります。
 12月28日11:13。JR広野駅に降り立った乗客は10名あまり。しかし、その半数は駅とその周辺の撮影だけ済ませるとそのまま折り返しのいわき行きに乗ってしまい、広野駅の改札を抜けたのは5名ほどでした。
 広野駅から警戒区域最前線の検問所(以後、検問所と略します)まで3.5km。ここまで来て検問所を見ずして帰るわけにいきません。この目で見ておきたい。しかし、次のいわき方面行き電車の発車時間までは1時間半。徒歩ではかなり苦しい工程ですが、絶対に検問所まではたどり着きたい。そう思い駅前に立つと、一眼レフカメラを持った明らかに趣味人と思しき若者を発見。検問所まで駅前で客待ちしているタクシーへの相乗りも検討しましたが、最前線の街・広野町を歩かねば意味が無いと思い、徒歩でのアプローチを強行することにしました。
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 福島県双葉郡広野町は、いわき市の北隣に位置する人口約5,500人の街。しかし、2011年3月11日の東日本大震災による東京電力福島第一原発事故による影響で広野町全域が緊急時避難準備区域に指定され、住民だけでなく役場機能までが町外に避難する事態となりました。避難準備区域は昨年9月に解除され翌月から町内の除染も始まりましたが、放射能被害への懸念から街に戻ってきた町民は200名余りだったそうです。
 12月28日といえば、本来なら歳末大売り出しとして小さな街の商店街でも盛り上がるものですが、広野町のメインストリートには人影すらなく、大半の商店もシャッターを降ろしていました。
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 広野駅近くのスーパーも閉鎖され、福島第一原発へ向かう作業員の前線基地兼駐車場になっていました。たまにクルマが通り過ぎていきますが、本当に不気味なくらいに人がいません。皆さん、避難されているのでしょう。雨戸を閉めた家が多いのがその証拠でした。
 ところが、被災地を中心に空き巣被害が相当数発生しているそうです。これは田舎にありがちですが、自宅を塀で囲み、門扉で施錠する習慣や設備そのものが無いんですよね。岐阜の山奥にある私の実家もそうです。だから、他人の家でも敷地への出入りは実質的に自由なわけです。なかには角材や物干し竿で柵を作って敷地内に入れないようにしている家もありましたが、裏を返せば不在であることを知らせているようなもの。そんな背景を利用する鬼畜な奴ら。本当に許せません。広野町では地元の交番を拠点に、一定間隔でパトカーが町内を巡回していました。
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 広野駅から10分も歩かぬ間に広野町の中心集落をはずれ、このような風景に。正面の煙突は東京電力広野火力発電所。あの煙突の向こうに検問所がありますので、煙突を目標に歩きます。 
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 道路脇には、耕作された形跡の無い農地。あの事故さえ無ければ、毎年のように田を起こし、稲作を行っていたことでしょう。除染するとはいえ、本当に稲作を復活できる日は来るのでしょうか。
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 次の集落に入ると、重厚で真新しい建物が。よく見ると、東京電力の社員寮。屋根の壊れた家、ブロック塀の崩れた家が多いなか、あの激震でもビクともしなかったのでしょう。ここに暮らす社員さんは、広野火力発電所など現場の最前線でまじめに働いておられるかと思います。まぁ、経営陣のバカさ加減には怒り心頭ですが、ここでは触れないことにします。
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 緩やかな坂を登りきると、国道6号線に出ました。あとは検問所まで一本道です。しかし、本当にクルマが走っていない。福島第一原発関係の作業員を乗せたマイクロバスや、警官を乗せた車、資材を載せたトラックばかりです。特に白い服を身にまとった作業員を乗せたバスにはハッとしました。私は何かあってもすぐに現場から逃げられますが、現場の最前線で放射能との恐怖を振り払って作業に勤しむ作業員の皆さんに頭が下がる思いでした。
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 私、道の駅フリークですので、こんな標識をみるといつもなら喜んで飛び込みます。しかも、温泉付きですから最高の条件。しかし、たった2㎞先なのに道の駅「ならは」は、東京電力福島第一原発事故による警戒区域内の為、訪ねることは叶わない状況です。
 Jヴィレッジ(ジェイ・ヴィレッジ)は広野町と北隣の楢葉町に跨がって立地する日本サッカー界初のナショナルトレーニングセンター。設備の充実ぶりからプロ選手も練習に来ていたとか。現在はもちろんサッカーのトレーニングは行われておらず、福島第一原発の作業員が集まる前線基地になっているそうで、一般人の立入は禁止されています。
 実はこの施設は原発マネーによるもの。福島県内に原子力発電所を含む多くの施設を所有する東京電力が、1994年に地元への「貢献」として地域振興施設の造営・寄贈を行う提案を行い、日本サッカー協会が協力する形でナショナルトレーニングセンターを設立する合意がなされ、約130億円をかけて施設整備し5000人収容のサッカースタジアムや各種球技に対応可能な天然芝グラウンド、屋内トレーニング施設、宿泊施設等を建設。1997年に竣工した施設は福島県へ寄贈され、福島県の外郭団体である県電源地域振興財団の所有していたとか。
 そして、この標識の先、左手に警戒区域最前線に立つコンビニ「ファミリーマート」があります。作業員や警備員を中心に大変重宝されているそうです。
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 これまで整備されていた国道6号線が、突然の通行規制。何があったのか。対向車線にまわってみますと…。
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 路盤が崩壊していました。高規格道路として整備されながら、ここまで崩壊するということは、地震の揺れがいかに大きかったのかということと、福島第一原発への輸送ルートとして道路を確保するという国の必死さが伝わってきます。
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 「許可車両以外進入禁止」。いよいよ、検問所が近づいてきました。クルマはダメ(と言っても、一般車は転回場所が無いのでしばらく進まねばならない)ですが、私は徒歩。まったく問題ないので更に進みます。坂を下り、カーブを左に曲がりますと…
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 楢葉町に突入。そして、前方に物々しい光景が見えてきました。広野駅から歩くこと約50分。ここが福島第一原発から20㎞の一般人が立ち入ることができる限界地点にある検問所です。この先は放射能が高濃度であることから、立入ることができません。
 この先には東日本大震災後もほとんど手つかずの状態で、住民の方ですら立入が大幅に制限されているエリアです。牛やダチョウが街を走りまわる映像をTVや動画サイトで見ました。この先でどんな光景がみられるのか、個人的には見てみたいけどできない。でも、いつか行ってみたい。
 福島第一原発事故の収束には30年かかるという説がありますが、セシウムなどを除染しても警戒区域内の人が住み慣れた家に戻る日はいつになるのでしょうか。
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 訪問時(2011年12月)の事前調査では、警官が野次馬に対して神経を尖らせており、交差点に進入すると即座に追い返されるという情報がネット上で出ていました。私が行った際には何事も無く、交差点の手前から何枚か撮影させて頂きました。ここには全国の警察から交代で警備に当たっているとのことです。本当に御苦労様です。
 野次馬がこれ以上居座るのは邪魔以外の何物でもないので、5分ほどで検問所を去りました。

【補足】
 福島県広野町役場が2012年3月1日より、広野町内で住民の帰還を促し本格的な除染を進めるため、元の庁舎に役場機能を復帰させました。役場が移転した県内9町村のうち、元の庁舎に戻ったのは広野町が初めて。広野町は復興に向けて本格的に動き出しました。

テーマ:鉄道旅行 - ジャンル:旅行

2011東北冬紀行2・JR常磐線いわき~広野間
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 12月27~30日にかけて訪問した東北探訪シリーズの2回目です。
 いわき市平市街を散策した後、いわき駅に戻ってきました。いわき駅は数年前に橋上駅として改築された、非常にきれいな駅でした。改札機や券売機の数が30万人都市の玄関口として少し寂しいのですが、これもいわき市が拠点分散型都市であることを思うと納得できます。
 ここからJR常磐線を更に北上し、福島第一原発事故による警戒区域最前線の広野駅を目指します。
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 駅の切符売場には、常磐線の原ノ町・仙台方面の乗車券も購入できるように見えますが、福島第一原発事故の警戒区域内を走る電車はおろか代替バスすらありませんから、不通区間を挟んだ乗車券は販売されていません。紙で塞いだりしないのは、地元の人が利用者の中心であるため既に周知が進んでいることと、いわき市には原発事故で避難している人も多いため、まだ自分が暮らしていた街は線路で繋がっているという地域の絆を示すためにJR東日本が配慮して意図的に表示しているのかもしれません。
 JR東日本は、いわき駅 - 広野駅間を東日本大震災に伴う暫定ダイヤとして特別編成しており、この区間を1時間1本程度運転させているものの、半数は途中の久ノ浜駅までの折り返し運転であるため、広野駅まで運転する電車は限られています。
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 広野駅はいわき駅から5つ目の駅。しかし、被害状況や輸送量の違いもあって、広野駅まで電車が復旧したのは10月10日。ここまで遅れたのは、福島県広野町が9月まで原発事故(放射性物質の飛散汚染)に伴う緊急時避難準備区域に指定されていためです。震災から7ヶ月、ようやく隣の街まで電車が行き来できるようになったのです。
 しかし、明らかにローカル利用しか想定できないのにどうして4両編成なんでしょうね。常磐線の余剰運用なのでしょうが、もったいない車両の使い方です。走っているより止まっている時間の方が長い磐越東線のディーゼル車を利用した方が効率的な気もしますが、常磐線がJR東日本水戸支社、磐越東線はJR東日本仙台支社と管轄が違うため、JRのような縦社会ではどうしようもないのでしょう。
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 さて、広野行き電車に乗り込みましょう。しかし、方向幕は「空白」。広野行き方向幕が無いのでしょうが、せめて「普通」ぐらい出せないものでしょうか?非常に不親切です。JR東日本ではお家芸じゃないですか。こういう前後部方向幕が不親切なのは、JR西日本の北陸地区でも見られます。
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 側面方向幕で「普通」と出されても、どこへ行くか分からないようでは不便なままです。普通電車なのはホームの時刻表見れば分かるだろうがバカモン(怒)!!と軽くツッコミを入れて乗り込みますと、10:49に静かに動き出しました。
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 いわき駅を出てすぐの草野駅・四ツ倉駅付近では、仮設住宅の多さに驚きました。既に仮設住宅団地となってました。同じ福島県でも中通りや会津地方へ避難する人が増えるなか、近場のいわき市内への避難者が多いのは、被災地からも近く同じ福島県浜通りで気候の変化が少ないから過ごしやすいのだと思われます。現に関東や西日本に避難された被災者のなかには、土地勘も何もない避難先での地域性や文化の違いに馴染めず、再び被災地に戻った方が相当数いると聞いています。やはり、住み慣れた土地こそ、最も過ごしやすいものであり、そこへなるべく近い街で過ごそうとする心理、よく分かります。
 久ノ浜駅辺りからは再び海沿いを走ります。すると、これまで眺めてきた海岸沿いの風景と明らかに異なることが良く分かります。テトラポットのわずかな隙間から津波に襲われた集落。応急処置の土嚢が積み重ねられたままになっています。
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 ただでさえ、お客さんの少ない電車も、久ノ浜駅を過ぎるとお客さんはグッと減ってしまいました。遂には先頭車両にかじりつく、明らかに同業者の香りがする面々ばかりになりました。
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 岸壁が破壊されたまま放置されている浜辺。付近に人家が無いという理由で優先順位が下がっているのでしょう。そして、海水を被ってしまい放射能の影も忍び寄るこの地で再び農業は再開できるのでしょうか。
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 集落が流れてしまったところもありました。数枚画像を紹介しましたが、共通するのは高波対策が非常に脆弱なことです。数メートルの波でも被害を受けそうな感じです。これは、これまでの津波対策が過去に被災した地域にしか施されておらず、未整備地域が国内にはまだいくらでもあるということです。
 また、過去の災害から学んでいない地域も多いこと。建築技術の向上や核家族化などが、もしもの際に危ないエリアにも住宅建築を進めてしまった地域の多さ、更にその条件下で避難訓練や行政の防災対策が不十分であったことが、今回の震災での被害を拡大させてしまったと言えます。

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 いわき駅から電車に揺られ、震災の爪痕に衝撃を覚えながら、25分ほどで暫定の終着点・広野駅に到着です。広野駅では中線に臨時ホームを設置していました。下り線から上り線へ入る渡り線が無いのか、信号システムの為と思われます。予想以上に小さな駅で驚きました。ちなみに昨年度(2010年)1日の平均乗降人員は672人とのこと。
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 電車はここまで。この先へは進めません。そして、駅の海側(画像右側)に広がる風景。よく覚えておいてください。広野の街を歩いて、この後衝撃の事実が判明します。
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 広野駅ホームより仙台方面を望むと、信号機は赤。線路には草が生え、線路の真ん中に杭が打たれています。韓国の鉄道で分断された鉄道を前に「鉄馬は走りたい」という碑があることが有名ですが、日本でもほぼ同じ状況がここにあります。首都圏と東北を結ぶ鉄道の大動脈・常磐線はここで寸断されてしまったのです。隣の駅へ電車が走る日はいつやってくるのでしょうか。
 広野駅は東日本大震災の福島第一原発事故に伴う警戒区域まで約3.5km。ここまで来ると、少しピリピリした感じすらしますが、ここまで来たら、もう行くしかありません。限界地点まで行ってみることにしました(続く)。

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2011東北冬紀行1・いわき市散策
 2011年12月27~31日にかけて行きました、東北&東京の旅で印象に残った街の様子をシリーズで書き綴ります。
 12月28日、上野駅から常磐線各駅停車に揺られ乗り継ぎ約4時間、福島県いわき市に到着しました。いわき駅では列車の乗り継ぎが悪いため、午前と午後に1時間ほど時間が空いてしまい、その間にいわきの街を散策してきました。
 いわき市は人口33万人、面積は福島県最大。平成の大合併が行われる前は自治体としては全国一だったそうです。それもそのはず、1966年(昭和41年)に当時の新産業都市建設促進法に則って14市町村(5市4町5村)による大合併を実現したのですから。市街地が、いわき駅のある平、港町の小名浜、温泉街の常磐などに分散しているのも特徴です。
 ところで、なぜ市名が「ひらがな」なのか。「いわき」の漢字表記は、律令時代および明治後期以降の郡名が「石城」、この地を治めた大名の姓が「岩城」、江戸時代と明治旧国名が「磐城」が使われていたとか。しかし、1966年(昭和41年)の市町村が合併の際に「磐城市」が含まれていたため、市町村長の政治的妥協でひらがなの「いわき」になったそうです。確かに漢字じゃ読みにくいでしょうし、日常的に書かねばならない市民の方も大変だったことでしょう。
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 街は極めて平穏。駅前は再開発が行われたようで予想以上に整然としていましたが、30万人都市としては人通りが少ないように感じました。街中を歩くと屋根をブルーシートで覆った家を数件目撃しました。震度6強だったいわき市。半年以上経過しても、震災の爪痕を感じます。駅前から古い街並みを歩くこと10分ほど、いわき郵便局で半年ぶりの旅行貯金実施。窓口氏のお国訛りが遠くへ来たことを実感させます。
 郵便局のお隣にある「いわきの台所鮮場」という産直市場の様な結構充実したお店へ。鮮魚、刺身、寿司、冷凍品、塩鮭、干物、おみやげ品と充実した品揃えです。地元の人向けの店と思いきや、土産物もズラリと並んでおり、双方をターゲットとしている店。
 ただ、気になったのは、この店で最も幅を利かせている鮮魚売り場に並ぶ魚の水揚げ地は「茨城」「千葉」「宮城」など、すべて県外で水揚げされたものだったこと。あの事故が原因で福島県沖での漁業が自粛に追い込まれているという情報はあらかじめ知っていましたが、港が目の前にあるいわき市の魚屋さんでこのような光景を見ると胸が詰まります。数km先には太平洋が広がっており、小名浜港には良質な鮮魚が水揚げされる東北でも有数の港なのに、福島第一原発の事故によって自然の恵みを絶たれてしまった損害は計り知れません。このエリアが特に厳しいのは漁業に限らず、それに付随する水産加工業にも影響が出てしまっている点です。福島県小名浜の干物は名古屋のスーパーでも見かけるほど、出荷量も多かったわけですから。
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 電車の時間が来たので一旦広野町へ向かい、散策を済ませた後に再びいわき市に戻りました。その後の模様は別項で。

 今回は時間の都合(財布の事情説もあり)で未訪に終わりましたが、こちらも震災で大きな損害を受けたハイレベルで知られる水族館「アクアマリンふくしま」(入場料1,600円)も復旧し、地域のシンボル的存在の温泉施設「スパリゾートハワイアン」(同3,000円)も復旧し、いわきの街は再び歩み始めています。とにかくいわき市は広過ぎて半日程度じゃ回りきれません。恋の旅でも予定を3時間以上オーバーしても足りませんでした。名古屋からアプローチするのは大変ですが、また訪れたいと思います(画像は、夜のいわき駅前の様子)。
 右側の建物は図書館とショッピングモールが同居するビル。最近、この種のビルが全国各地の駅前に増えています。ここに入っていた酒売場の品ぞろえが非常に良く、土産物買いにおススメです。あと、このビルの一角に三越が入っており、三越の小型売店という店舗形態を初めて見ました。

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そうだ。今年こそ、東北へ行こう。
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 年明け早々、批判を覚悟で少し思うことを書きます。
 2011年3月11日、東日本大震災が発生しました。まず、テレビ映像を見て瞬時にこれまでの災害とは規模も被害も比較にならないほど甚大であることが判明し、幸いにも揺れた程度で収まった名古屋でまず思ったのはボランティアへの参加でした。
 行政のボランティア受け入れ態勢体制が整うまでに時間がかかった(なお、石巻市の様に迅速だった自治体も存在する)ことから、早い段階で勝手連ボランティアが竹の子のように発生しました。組織に入れる環境にある方はまだいいのですが、問題はその輪に入れない個人です。ボランティアツアーなる企画が続々とできましたが、以下の事情で辞退することにしました。
 まず、スケジュールの問題。社会人では到底無理な長期滞在やタイトなスケジュール。名古屋からも0泊3日の弾丸ツアーが名古屋のマスコミで何度も紹介されており、費用も1万円であることから個人的には非常に関心を持ちました。ところが、実態は金曜日の夕方6時に集まり、月曜日の朝8時に名古屋で解散というスケジュール。勤め人では厳しい日程でした。
 そして、もう1つはあまりの融通の無さ。被災地の被害状況や被災者からのヒアリングもままならず、ボランティア経験があるという団体の責任者による一方的な割り振りまではいいとしても、バス費用の都合上、前途運賃放棄を条件に現地(又は仙台市内で)解散ができないプランが圧倒的で、出発地までの強制帰還が特に不満でした。昼食は現地の食堂(又は弁当屋)を利用するとはいえ、着替え兼入浴として観光客が来なくて苦しんでいる日帰り温泉施設等へ寄るなどのアイデアも無く、なかには高速道路のP.Aのトイレ等を占拠して着替えをさせる団体もあったようで、現地作業はしても現地にお金を落とす経済支援をしない上辺だけのボランティア活動に嫌悪感すら感じるようになりました。
 また、現地の自治体でも作業の進捗に伴い、昨年秋頃からは個人の飛び込みボランティアが原則不可となり、現地ボランティアセンターに事前登録するか、交渉が団体単位となったために団体に所属しないとボランティア活動そのものができなくなっています。したがって、昨年夏以降ボランティアが激減しているという報道が一部でありますが、これはこれら団体による「続かないボランティア活動」がもたらした当然の結果であり、同時にその改善はありえないと断言できます。 
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 ボランティアに行かなかった負い目はあります。ただ、震災から半年以上を経過しており、応急処置的なボランティアはその役割を終えようとしており、ボランティアも次の段階に映る段階に来ています。それは経済的支援です。「被災地へ行かなくても可能な支援はある」という主張もあり、それは一理あります。確かに西日本で東北の商品を積極的に購入することである程度の貢献はできます。現に私は日本酒好きですので東北の酒を積極的に購入しています。また、野菜や魚など生鮮食品を積極的に購入する手もあります。しかし、その数には限度があります。
 その背景には流通ルートの問題があります。私が暮らす愛知県は工業県としての色合いが強いですが、同時に農業や畜産が盛んな県でもあります。したがって、わざわざ東北地方まで手を出さなくても地元で調達可能な食材がいくらでもあるのです。東北地方の商品の多くは首都圏に供給されており、西日本にまではなかなか流通しないのが現状です。東北地方の商品に人気が集中するのは結構なことですが、その裏側で鮮度に勝る地場産の商品が売れない現象も一部で出ているようです。これでは本末転倒です。
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 これからも東北地方を応援していく姿勢を持ち続けることが大切かと思います。まず、できる限り東北に直結する経済活動を行うこと。次に東北地方を訪ねる。場合によっては被災地を見る、これもアリだと思います。百聞は一見に如かずじゃないですが、テレビや紙媒体だけではわからない現地の姿を肌で体感してこそ価値があると思います。
 昨年の夏頃は「被災地見物に行くのは不謹慎だ」という論調は確かにありました。その論調は仮設住宅や避難所のように被災された方々の生活エリアに限られた話であるはずなのに、話が飛躍して津波被害からいち早く復旧した日本三景・松島をはじめ、世界遺産に認定された平泉や福島県会津地方など被害も軽微だった地域まで含まれてしまったために、風評被害によって観光客の減少に悩んでいます。もっと深刻なのは、青森・秋田の両県で首都圏からの観光客が激減しているとか。これ以上、出控えが続くようでは観光地に限らず、東北地方各地で経済復興は遅れてしまうと思います。
 だから、余裕のある方はできるだけ東北地方を訪ねて欲しい。仮にそれができなくても、東北地方との接点を持ち続けることで、経済的支援に寄与することを忘れてはならないと思います。私も機会は限られますが、今年もう1度東北地方を訪ねたいと思っています。

(【画像】1枚目:陸前高田市の一本松、2枚目:大船渡市碁石海岸、3枚目:仙台市伊達政宗像、いずれも2011年12月30日撮影。)

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