名古屋・広隆堂ブログ
名古屋から発信する、少し偏った情報と管理人の徒然なる平凡な日記。乗り物・旅・名古屋の情報・時事ネタ・テレビ・ラジオを中心にあれこれ思うことを書き綴ります!がんばろう、日本!がんばろう、東北!そして、がんばろう、自分。
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広隆堂(こうりゅうどう)

Author:広隆堂(こうりゅうどう)
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1976年10月26日名古屋市千種区生まれ。小学校卒業まで名古屋で暮らし、中学・高校時代を岐阜の山奥で過ごす。都会へあこがれ、大学卒業後、名古屋へ舞い戻る。乗り物と旅行、そして中日ドラゴンズを心から愛する。
 子どもの頃からモノ集めに凝っていたが、最近はポイント集めに凝っており、特に航空会社(ANA・JAL)のマイル集めに熱中している。
 人と同じ事をするのが苦手。協調性が無いせいもあって集団で浮きやすい。できないことを無理にするのは疲れるので、典型的なオレ流・ワンマンだとよく言われながら、迷惑をかけないように好き勝手にやっています。
【「広隆堂」の由来】
 「こうりゅうどう」と読んでください。名前は本名の姓名から一字ずつ頂き、人が集う意味のある字「堂」を加えたものです。コミュニケーションの場として活性化されることを願って名付けました。古臭い名前ですが、本人はかなり真剣に考えて付けました。

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2013年1月を送る
 いつも、弊ブログをご覧いただきありがとうございます。
 2013年も静かに始まりましたが、1月下旬に風邪をひいて寝込んでしまい、出足を挫かれた1月でした。そのため、更新頻度も大幅に伸びてしまいまして申し訳ありません。昨年からの在庫一掃も思うように進まず、8月末の近江八幡散策を何とかねじ込むにとどまっております。このあとは三重県の巡航船の話、紅葉の話とまだまだ昨年の話で特集を更新予定です。12月末の静岡遠征の話を1月下旬より公開の予定と過日にお知らせしましたが、もう少し遅れます。すみません。

 さて、恒例の都道府県別アクセスランキングです。1月は和歌山県を除く46都道府県からのアクセスを頂きました。1月も愛知県がシェア49.5%でトップ。遂にシェア50%を割りました。2位は東京11.4%、続いて岐阜・三重(ここまでシェア5%以上)、大阪・大分・長野・神奈川・京都・埼玉の順。この後も静岡・石川・千葉・長崎・ 兵庫・北海道の16都道府県がシェア1%以上を構成しています。1月の注目は6位の大分県と8位の長野県の大躍進が目立ちました。

 新年早々、様々な事件・事故の話題で盛り上がっています。小出しに思うことを書いていきたいと思います。
 2月は私にとって天敵の花粉症との戦いが始まります。今年は例年の数倍だそうで、相当な覚悟が必要です。しかも、中国から大気汚染の波が押し寄せているそうで、今年はWの襲撃に対処する必要があるようです。

 今後とも御贔屓に、よろしくお願いします。

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アルジェリアの事件に思う
 アフリカ・アルジェリアで発生した人質事件。現地の石油プラントに勤める日本人で、残念ながら犠牲になられた方が出ました。異国の地で世界のために働いてきた、日本が誇る企業戦士の皆様に心よりご冥福をお祈りします。
 ところで、この報道について「犠牲者・生存者の氏名を公表するか否か」で世論が二分しています。特に興味深いのは、犠牲者の氏名を「公開すべきでない」という意見が過半数を超えている点です。これは企業(日揮)が政府に対して「氏名を非公開にして欲しい」と要望をしたためだそうですが、残念ながらマスコミにより氏名が明らかとなると、早速遺族の元へ集結して取材合戦する見苦しさが世論の批判の矛先になっています。そもそも、氏名を公表した時点で、遺族の住所や実家が分かるという仕組みが良く分かりませんが。
 そして、企業が犠牲者・生存者の氏名を「非公開」にこだわっているのか。それは、この事件の背景にある複雑に入り組んだ関係を考える必要があるように思います。アルジェリアについて、箇条書きにまとめます。

・立地上、アフリカ世界と地中海世界とアラブ世界の一員である。
・イスラム教の影響が強い国である。
・アルジェリアでのプラント開発は1960年代から始まっていた。
・1990年代以降、内情不安が続いている。
・元フランスの植民地であり、フランスの影響がいまだに強い。
・膨大な対外債務があるが、天然ガスや石油を産出し、近年の原油価格上昇で貿易黒字が増大している。
・LNG(天然ガス)の埋蔵量世界第5位、輸出量世界第2位のLNGの輸出国。
・化石燃料(炭化水素)関連の産業が国家予算の52%、GDPの25%、貿易収益の95%を占めている。

 原油や天然ガスなど石油資源は、ニーズの高さから莫大な利益を生み出す「利権」です。したがって、石油資源に起因する紛争が現在も世界では続いています。また、原産国のなかには経済が脆弱であることから、石油資源が国の命運を担う生命線であるところもあり、今回のアルジェリアもその状況にある国の一つだと言えます。
 すると、アルジェリアのもう一つの側面が見えてきます。

・アルジェリアは石油資源の輸出が国家の生命線になっている。
・石油資源は大半がヨーロッパに輸出されている。
・プラントが破壊され生産不能になると、アルジェリアはヨーロッパから莫大な損害賠償を請求される。
・莫大な損害賠償にアルジェリア政府は弁済能力が無く、国家破たんしかねない。

 今回の事件では、アルジェリア軍が人質や反政府軍よりもプラントの保護を第一とした点で批判が出ていますが、アルジェリアが抱えていた内的問題を思うと、一方的に批判する気になれません。
 また、そこで働く作業員はプラントの管理や天然資源についての技術・情報があり、場合によっては漏洩が許されない国家機密レベルの情報も現場にはあったことでしょう。石油プラントでは、外国人ながらアルジェリア国家の生命線を支える身でもあったわけです。だから、仮に今回の生存者で別の現場に行くとなったとしても、アルジェリアでの経験があるという情報が漏洩すれば、アルジェリアの情報を探ろうとする手が追ってくる危険性があり、身の安全が保障されない恐れがあります。だから、日揮は犠牲者・生存者の氏名公表について慎重になっていたのでしょう。新聞報道では、家族ですら犠牲者の仕事内容について詳細まで伝わっていなかったようです。それほど、情報管理を厳命させられるプロジェクトに携わっていたということです。

 今回の件について、私は「犠牲者は氏名のみ公開し、生存者は氏名も非公開にする」で良いと思っています。遺族取材が問題になっていますが、遺族が拒否を示したのなら「拒否されました」で締めて、そこで取材は終了すべきです。「粘り強く交渉すれば、遺族も軟化してコメントしてくれる」と、しつこく張り込んだり電話取材を続けるマスコミがいるようですが、それは自粛すべきです。「今の気持ちは?」なんて質問する光景をTVで見ましたが、その質問は聞くまでもない愚問です。
 犠牲者の氏名公開については、毎日のように流れる交通事故や火災による犠牲者報道が許されて、今回の件で許されないのはなぜかという疑問もありますが、背景を見ると内容が理解できました。

 この種の事件、今後も続くことだろうと思います。これを回避するなら、石油に極度に依存した資源需要を改めるという、天地を逆さまにする様な価値観の変更を強いることになります。声は上げども難しい問題であり、現実のモノとなるのは相当な時間と投資を必要とします。しかし、恐れるばかりでは仕事はできません。突破せねばならない課題に挑むことこそ「仕事」であり、その先にある「達成感」を掴むために日々闘わねばならないのです。
 そこに「ヤマ」がある限り、企業戦士は各地へ飛ぶことでしょう。改めて、アルジェリア事件で犠牲になった企業戦士に合掌。

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CBCラジオ分社化
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 名古屋の放送局・CBCが、今年4月1日よりラジオ部門を分社化させることを正式決定したそうです(画像は2013年1月18日中日新聞朝刊より)。
 この流れ、ある意味予定通りだったのだと思います。その布石としてCBCは一昨年の8月に子会社に対し、これまでの番組制作及び放送送出業務に加え、営業業務も委託したうえで「CBCラジオ」の名称を商号として使用することを認めておりました。弊ブログでもその時の様子を取り上げました。

 ↓当時の弊ブログ記事↓
http://kouryudo.blog61.fc2.com/blog-entry-959.html

 つまり、今回はCBCに置かれたままだったラジオ部門の総務・人事・経理など、法人としての中枢まで委譲して、別法人にするということです。ラジオの分社化といえば、既に東京のTBSや札幌のSTVが実施しています。ただ、法人としては別会社となりますが、番組内容の方向性が変わるなどの動きには至っておらず、基本路線は変わらないモノと見ておいて良いかと思います。
 中日新聞によると「テレビとラジオの兼営を解消して各事業の独自性を高める。独自の意思決定ができるようになり、より面白いラジオ番組作りにつながる」とのこと。しかし、上手く行くのでしょうか。
 最近のCBCラジオは本当に魅力が無くなりました。1990年頃までの羽振りの良かった頃を知っているだけに強く感じます。CBCラジオの凋落は、この15年来、古参メンバーで長年固定し、ローカルタレントも排除して新しい風を極限まで否定してしまった当然の結果ともいえます。その上、朝PONのリスナーツアーが多田アナから沢アナに交代したり、元旦恒例のつボイ先生の「聞けば聞くほど」特番も今年は飛びました。長寿番組が台頭するなか、パーソナリティに次の世代がおらず、昔の遺産だけで辛うじて生き延びている印象があります。局アナもパッとしませんし。一部の芸能事務所や広告代理店の言いなりになってしまった番組制作のレベル低下。冒険どころか、想像力まで無くなってしまったというのが、近年のCBCラジオに感じる私の印象です。
 聴取率ナンバーワンを標榜しながらも、ラジオとしてのクオリティはどこまで行けば底を打つのか、そんなことを思うことが多々ある最近のCBCラジオ。分社化により何かを仕掛けるというより、どうCBCが崩れていくかをリスナーの端くれとして、見守って行こうと思います。予想を裏切ってくれないかな?

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名古屋市交通局不祥事ファイル2013年1月号
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 中日新聞を読んでいますと、週に2回は絶対に載っている名古屋市交通局がらみの事故・トラブル・不祥事ネタ。既に「不祥事の総合デパート」になっている名古屋市交通局。そのなかでも特に重大なものやメディアが大きく取り上げた案件について、弊ブログでは毎月1回まとめて見る企画を初めてみることにしました。今回はその第1弾です。
 1月10日、名東区平和が丘で走行中の名古屋駅発猪高車庫行き市バスが対向車線に飛び出し、走行中及び停車中のクルマに次々と衝突する事故を起こしました。バスの乗客12名にケガはなかったそうです(画像は2013年1月11日中日新聞朝刊より)。
 現場は片側1車線の緩やかな下り坂で、猪高車庫バス停の手前50mほどから対向車線にはみ出し、対向車線の車と衝突。更に停車していたクルマに正面衝突。偶然バスに乗っていた別の交通局職員が運転席でぐったりしていた運転士を発見し、ブレーキをかけて停車したそうです。運転士は警察の調べに「意識が朦朧としていた」と話したそうです。また、昨年5月と10月の健康診断で異常はなかったそうです。
 ここはスーパーとハローワーク(職業安定所)が道路挟んだ両サイドにあって普段から交通量が多く、特にハローワーク駐車場待ちのクルマが慢性的に行列をなしている場所です。もし、バスに職員がいなかったら、下り坂を暴走し続け大惨事になりかねない事例だけに、背筋が寒くなる重大事故です。

 これは交通局に限りませんが、人件費圧縮の影響でバス運転士の労働環境は厳しくなっていると聞きます。しかし、人命を預かっているのですから、運転士の脳や心臓など精密な健康診断の徹底を交通事業者には願いたいところです。

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近江八幡散策3・ヴォーリズの軌跡
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 滋賀県近江八幡市を訪ねる旅の特集、3回目の今回で最終回です。近江八幡といえば、今回は明治後期から昭和戦後まで、近江八幡を拠点に滋賀県に大きな影響を与えたアメリカ人・ヴォーリズ抜きには語れません。今回はそのお話です。
 ウィリアム・メレル・ヴォーリズ(William Merrell Vories、1880年10月28日~1964年5月7日)は、アメリカ・カンザス州レブンワース生まれの建築家。1902年(明治35年)、コロラド大学の学生でYMCA(Young Men's Christian Association・キリスト教青年会)の奉仕活動に熱心だったヴォーリズは、YMCAの講演を聴いて種々な職業を通じて教育・スポーツ・福祉・文化などの分野の事業を展開するYMCAの思想に感銘をうけ、海外伝道への思いを強めていました。
 1905年(明治38年)24歳のヴォーリズは滋賀県立商業学校(現滋賀県立八幡商業高等学校)の英語教師として来日。英語を教える傍らキリスト教伝道者でもあったヴォーリズは、学生達に課外授業でキリスト教について伝道した行為が問題となり、僅か2年で教職を追われてしまいます。しかし、これで諦めないのがヴォーリズ。「近江ミッション」を設立し、教え子の参加もあって信徒の立場で熱心にプロテスタントの伝道に従事しました。
 1908年(明治41年)京都で建築設計監督事務所を設立。本業の建築家として日本各地で西洋建築の設計を数多く手懸け、学校・教会・YMCA・病院・百貨店・住宅など、その種類も様式も多彩で1500軒以上の設計に関わりました。
 その一方で、YMCA的な思想から産業振興の為のノウハウ提供に尽力し、近江八幡に次々と起業する動きを起こす実業家活動も活発になりました。その業種も小売業に限らず、教育や福祉、医療と多種にわたりました。弊ブログでも取り上げました「たねや」クラブハリエによるバウムクーヘンもヴォーリズの紹介によるものです。
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 その中でも特に有名なのが「近江兄弟社」です。ヴォーリズは設計事務所の発展により、建築に必要な建築金物や家具、照明器具、ステンドグラス、ハモンドオルガン、ピアノ等に至る幅広い輸入を盛んに行うようになりました。その輸入会社として設立されたのが近江兄弟社の前身となる「近江セールズ株式会社」です。米国実業家A.A.ハイド氏(YMCAの強力な支援者)がヴォーリズの働きに共鳴し、活動を支援するために塗り薬「メンソレータム」の日本におけるライセンス(商標・輸入・販売権)を提供。ヴォーリズの事業を支える大きな柱となりました。
 経営が軌道に乗ると、ヴォーリズは社会活動を本格的に始めます。1940年(昭和15年)12月、ヴォーリズは社会教育の一環として「近江兄弟社図書館」を開設。1975年(昭和50年)まで私立近江兄弟社図書館として運営されました。その後、図書と備品のすべてが市に寄贈され、現在は近江八幡市図書館となっています。
 日米関係が悪化してきた1941年(昭和16年)1月、ヴォーリズは華族の一柳末徳子爵の令嬢満喜子夫人の一柳(ひとつやなぎ)の姓を名乗り日本に帰化し、名前も米来留(めれる)と改めました。「米来留」とは米国より来りて留まるという洒落だったそうですが、日本に身を捧げる覚悟だったのでしょうね。1944年(昭和19年)に近江セールスは「近江兄弟社」に社名変更。「人類みな兄弟」の精神に由来しており、兄弟が設立したものではありません。
 戦後になって、1933年(昭和8)に創立した「近江勤労女学校」を改組、1947~48年(昭和22~23年)に相次いで小学校・中学校・高校を開校し「近江兄弟社学園」が誕生します。その後、高校野球で甲子園にも出場する有名校となりました。近江八幡での文化活動。ヴォーリズの思想が見事に花咲きました。

 近江兄弟社は輸入していた「メンソレータム」の自社製造も行うようになりましたが、1964年(昭和39年)創業者のヴォーリズが亡くなると近江兄弟社は経営不振になり、自主再建を断念すると1974年12月24日に近江兄弟社は倒産。長年保有していた「メンソレータム」の販売権もアメリカのメンソレータム社へ返上しました。近江兄弟社はメンソレータムの製造設備を用いて大鵬薬品工業の資本参加で再興を図りましたが、1975年にメンソレータムの販売権をロート製薬が取得(後にメンソレータム社も買収)したため「メンソレータム」の商品名は使えない。そこで1967年に近江兄弟社が登録していた商標「メンターム」を商品名として採用し、主力ブランドとして現在に至っています。「メンソレータム」と「メンターム」。外観は良く似ていますが、メンソレータムが黄色ワセリンを使っているのに対し、メンタームは白色ワセリンを使っているため色合いが若干異なるのだそうです。しかし、メンタームの商標登録は類似品対策と思しき所もありますが、今思うと先見の明がありましたね。
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 ヴォーリズは関西を中心に国内外で1,600棟を超える建築を設計しました。その建築は名建築として日本の近代建築に影響を与え、近江八幡では「ヴォーリズ建築」として、各地で保存されています。旧八幡郵便局の建物は、大正10年にヴォーリズによって建てられた大正期を代表する建築の一つで、旧市街中心部のランドマーク的役割を果たしており、現在も市民団体によって保存活動が続けられています。
 数年前に取り壊しで大騒ぎした、滋賀県豊郷町の豊郷小学校もヴォーリズ建築として知られます。その希少性が故に取り壊しは中止され、現在は資料館になっているそうです。
 近江八幡の近現代において、教育・医療・産業など様々な産物を残していったヴォーリズ。その種は現在、近江八幡に大きな花を咲かせています。
 夏の終わりに見たテレビ番組で「たねや」を知り、そして9月に聴いたラジオ番組でヴォーリズのことを知って、事前情報一切無しで行った近江八幡への旅。地元を愛する近江八幡の人々の郷土愛が本当に良く伝わりました。近江八幡、良い街です。是非行って下さい。お薦めします。

【参考】
JFN「YAJIKITA ON THE ROAD」ブログ 滋賀の近代史にその名を刻んだ外国人、ヴォーリズの軌跡
http://site.jfn.co.jp/yajikita/blog/entry/9507
近江兄弟社
http://www.omibh.co.jp/index.html
W.M.ヴォーリズライブラリ
http://vories.com/

テーマ:滋賀県情報 - ジャンル:地域情報

近江八幡散策2・八幡堀の奇跡
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 滋賀県近江八幡市を訪ねる旅の特集2回目です。今回は近江八幡市の古い街並みを取り上げます。
 近江八幡市の古い町並みはJR近江八幡駅から琵琶湖寄りに約2㎞ほど北へ離れた所にあります。近江八幡の街並みは、天正13年(1585年)に豊臣秀次(秀吉の甥)が八幡山(画像奥の山)に城を築き開町したことに始まります。秀次は八幡の城下町と琵琶湖とを繋ぐ「八幡掘」を開削し、湖上を往来する船を城下に寄港させることで、人・物・情報を集め、さらに城下で楽市楽座制を実施することで大いに発展し、近江商人活躍の原動力となりました。
 ところが、天正18年(1590年)に秀次が移封され京極高次が城主となると、わずか5年後の文禄4年(1595年)に八幡山城が廃城となります。城下町商人としての特権は失われましたが、 船や街道を利用して多くの人や情報、文化が入ってくる地の利を活かし、その先進性と自立的な商法により近江八幡を本店として江戸や大坂に出店を設けるなど活躍していきます。今なお碁盤目状の整然とした町並みは旧市街地に残され、特に新町や永原町にはかつて の近江商人本宅の家々が立ち並び、八幡堀に面した土蔵群は往時の繁栄を偲ばせます。
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 また、近江八幡は織田信長が岐阜城から安土城を経由して京都に向かう道として整備したとされる、中山道の脇街道である京街道(滋賀県野洲市行畑で中山道から分岐、琵琶湖沿いに八幡・安土・彦根を経由して、滋賀県彦根市鳥居本で再び中山道に合流する全長41kmの道。彦根道・京道・八幡道の異名もある)も走り、交易の地としても栄えました。この道は将軍上洛に使われ、参勤交代での使用は認められていませんでしたが、唯一朝鮮通信使には通行が認めていたため「朝鮮人街道」という異名もあります。
 朝鮮通信使とは日本へ派遣された李氏朝鮮の使節のこと。室町時代から続いていたのですが豊臣秀吉の朝鮮侵略以後、断絶していた日朝関係の回復を願った徳川家康が、対馬藩を通じて朝鮮へ幾度と使者を送り、慶長12年(1607年)に正式に使節を迎え入れることとなり、文化8年(1811年)までに計12回の通信使が来日しました。当初の3回は回答兼刷還使(家康による国書の回答と日本に連行された捕虜を連れ帰る)でしたが、それ以降は将軍の代替わりの際の祝賀へと変化していきました。
 通信使の一行は漢陽(ソウル)を出発し、釜山より海路で対馬・瀬戸内海・淀川を経て京都へ到着、その後は陸路で中山道・東海道を経て江戸を目指す約2000㎞に及ぶ、往復で約1年もの歳月を費やす移動工程だったそうです。また、通信使は外交に限らず文化使節的な面も持っており、学者や文人、画家や書道家も同行する500人もの大所帯であったことから、鎖国をしていた当時の日本文化に影響を与えたそうです。
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 近江八幡の城下町最大の特徴である八幡堀は全長4,750mにも及び、現在は遊覧船も行き交う観光資源となっており、時代劇の撮影も行われるほどの魅力がありますが、この八幡掘にも物語があります。
 交通路や生活の場として長らくその役目を果たしてきた八幡掘でしたが、明治以降の陸上交通の発展に伴う街道の衰退及び水上交通の衰退が近江八幡の街に暗い影を落とします。更に生活様式が変わっていくと、昭和30年代には八幡堀は排水路でしかない忘れ去られた存在となり、昭和40年になると八幡堀に堆積したヘドロは1.8m、総量50,000㎥、蚊やハエの発生源や市民による不法投棄の場所と成り果て、先人達の遺産は無用の長物にまで姿を変えていたのです。近江八幡市は都市基盤整備の名目で八幡掘の埋め立てを計画し、滋賀県も改修工事としてこの計画を容認します。
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 ところが、1972年(昭和47年)に近江八幡青年会議所が「堀は埋めた瞬間から後悔が始まる」と全市民へ浚渫と復元を呼びかけます。「今現在、我々が存在するのも八幡掘があったからであり、街の歴史が詰まった堀を守らなければならない」という思いからでした。更に青年会議所は1975年(昭和50年)に「死に甲斐のあるまち」をコンセプトにした新たな運動を展開します。これは、働き甲斐や生き甲斐のある場所は複数あれど、死ぬ場所は一つしかなく、この街で生涯を終えることに後悔しない街にしたいというものに発展します。
 青年会議所は県土木事務所等との折衝を続けながら、毎週日曜日に会員自らが八幡堀へ入り自主清掃を始めます。八幡堀の埋め立てを望む市民も多く、市民感情に反した活動にはヤジが飛び、ゴミを捨てる心無い人もいましたが、活動の継続とともに市民の目も変化しすると、パンや牛乳を差し入れや清掃作業を手伝う人、自社のダンプやユンボを貸出してくれる建設業者も現れ、八幡堀再生を目指す人で堀端は賑い、活動が近江八幡市の「誇り」を取り戻す事業に成長していきました。同年9月、ついに滋賀県は改修工事を中止、国に予算を返上したのです。
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 その後、八幡堀の保存・清掃活動は街並み保存への原動力になり、1992年(平成3年)4月30日に新町筋、八幡堀周辺、永原町筋、日牟禮八幡宮境内地を加えた13.1ヘクタールが滋賀県初となる、国の「重要伝統的建造物群保存地区」の選定を受けました。街並みを歩く中高年向けの日帰り観光が一般的になると、電車で京都から30分、大阪から1時間、名古屋から1時間半という近江八幡の立地の良さが幸いし、休日には観光客が訪れる様になりました。
 復活した八幡掘は近江八幡のシンボルとして、現在も市民と行政による協力や連携により清掃・保存活動を続けています。もし、目先の利益だけを求めて先人達の足跡を否定していたら、近江八幡は京都・大阪のベットタウンの一つとして数えるだけの「垢抜けない街」で終わっていたことでしょう。
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 現在でも碁盤の目の様に張り巡らされた近江八幡の街には、昭和を彷彿する渋いエリアが随所にあって、そこでは日常生活が営まれています。
 近江八幡は安易な観光振興ではなく、自分の暮らす街に「誇り」を持ちたいとする市民の熱意で「八幡堀の奇跡」を起こしました。日常風景である街並みが風情ある観光として認知されたのは、その副産物でもあります。しかし、現状に甘んじてはなりません。今の近江八幡があるのも、先人達の熱意ある運動があってこそです。これを「過去の出来事」になってしまぬよう、街を守り続けるための今後の取り組みに終わりはありません。
 街並み保存で観光振興しようとする街は数多くありますが、近江八幡の様な熱意のある街は意外と少ないように感じます。自分が暮らす街に誇りを持つにはどうすべきか。そのヒントがこの街にはあると思います(続く)。

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近江八幡散策1・「たねや」鄙美の美学
 名古屋と京都・大阪を毎年何度も往復しながら、通過するだけで意外と歩いていないのが滋賀県です。しかし、滋賀県には魅力的な街が点在しています。そのなかで、かねてから散策したいと思っていた滋賀県近江八幡市へ出かけました。私を近江八幡に誘ったのは、この街に根付いている3つの思考の存在でした。これを元に近江八幡の魅力に迫りたいと思います。
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 近江八幡は滋賀県の中央部に位置し、近江商人と水郷で知られる人口8万人の街。名古屋からも在来線で約1時間半。大垣駅と米原駅で列車を乗り継いで行きます。

 今回、近江八幡を訪ねるきっかけとなったのは、昨年8月に放映されたテレビ東京の「カンブリア宮殿」で紹介された、滋賀県の和菓子店「たねや」。いまや、百貨店にも出店するほどの有名な和菓子店ですが、企業としての取り組みと考え方に大きな刺激を受け、私の脳裏に「たねや」の名が刻み込まれており、その拠点である近江八幡で「たねや」イズムを感じて来ようと思ったのです。
 近江八幡駅から北へ、市役所を目標に駅前のメインストリートを進むこと10分ほどで、たねやの本店に到着しました。百貨店に出店する店舗にありがちな、無駄なぐらいの華美や自意識過剰なブランド意識、客への上から目線はここにはありません。店員さんは皆柔らかい応対で、柔らかい近江弁(江州弁)が非常に心地よく感じます。

 「たねや」は江戸時代に材木商を生業とした家系が、近江八幡で穀物類・根菜類の種子を商う「種屋」を創業したのが発祥。1872年(明治5年)に7代目山本久吉が京都の和菓子店「亀末」で修行を積み、栗饅頭と最中を製造販売する和菓子店に商売替え。1921年(大正10年)に東京「塩瀬総本家」で修行を積み宮内省大膳寮に2年奉職していた8代目山本脩次が種屋2代目を継承。物資不足の太平洋戦争直後には栗饅頭が人気を博し、現在のたねやに続く土台となりました。
 業界を問わず、評判が広がるとお客さんも増え、売上が伸びます。すると、たねやも例外無く拡大路線に転じ、1976年(昭和51年)6月に大津西武に百貨店初進出。百貨店に進出したことにより、今までの商品を一新させ「高級路線」で経営に乗り出しましたが、この「背伸び」が大失敗。地元では有名なのに百貨店での売り上げは常に最下位争いをする程に低迷します。その原因は消費者ニーズの読み誤りだったのです。消費者が「たねや」に求めていたのは雅美(みやび)ではなく、鄙美(ひなび)であったと気づいたのだそうです。高級な創作和菓子ではなく、地元の人が普段着で昼下がりに食べられるような素朴で実用性の高い和菓子だったのです。
 たねやが陥ったパターンは、最近では洋菓子店や高級レストランに多いパターンですね。やれ「パティシエ」だ、やれ「〇×コンクール優勝」だ、やれ「海外修業」だという看板をあげて、商業プロデューサーや広告代理店に丸め込まれている経営者風な洋菓子職人の方々。大都市の高級ビルや海外進出する報道がなされますが、職人が進む道は面的拡大なのでしょうか?基本を忘れてしまった著名な職人達を哀れに思います。
 「たねや」は常に発祥地の近江、滋賀県を意識した商売を営んでおられます。だから、原料も滋賀県産、店員さんも近江弁。創作意欲の高い商品も企画しつつ、「たねや」ブランドを確立した栗饅頭やどら焼きを決して手抜きしない。これが「たねや」をこれまでも、これからも地元の素材・人材を重視する地に足を付けた経営につながっているのだと思います。自分良し、相手良し、世間よし。三方良しの近江商人イズムが継承されています。
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 本店の前からバスに乗り込み、古い街並みに向かいます。ロープウェイのある八幡山の麓にある「日牟禮ヴィレッジ」は日牟禮神社そばに作った和菓子と洋菓子の販売と喫茶ができる複合施設で「たねや」イズムの総決算。そして、近江八幡観光の目玉の一つとして、全国からお客さんが集まってきます。販売だけでなく、店内で軽食も可能な点はポイントが高いですね。
 ここまで来ると、さぞ「たねや」は儲かっているんだろうなと思いたくなりますが、この企業がすごいのは、その源泉となる製造ノウハウをライバルともなりかねない同業者の職人さんにも門戸を開けて教えていることです。その理由についてのコメントがすごい。「和菓子業界全体が縮小しているのに、業界全体が盛りあがらなくてどうするんですか」。製造技法を秘密にしたところで、それは看板を温存させるに過ぎず、和菓子全体では技術継承が断絶することで和菓子離れを食い止めることはできないのです。だから、技法伝承を限定することで目先の利益を確保しても、和菓子業界全体で言えばマイナスでしかないわけで、いかに和菓子業界を活性化し盛り上げるかを考える視点に大いに唸りました。
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 日牟禮ヴィレッジのもう一つの核が、こちらの「クラブハリエ」。目の前で焼き上げ、アツアツのバウムクーヘンを切り分けて売るスタイルで革命を起こし、百貨店で大行列をつくるお店でもあります。赤煉瓦の洋館の中に一歩足を踏み入れると、甘い香りが鼻を癒します。洋菓子の工房と販売スペースが大きくとられており、その奥に進むとカフェがあり、イートインも可能です。石畳のヨーロピアンなテラス席もあり、ステキなお庭を拝見しながらティータイムが楽しめます。
 この「クラブハリエ」もたねやの経営です。1951年に洋菓子の製造を開始して以来、工房を売り場に併設し、改良を続けながら客の目の前で製造し、切り分けて販売スタイルを行っています。お菓子は主食ではないので、いかに魅せて満足させるかというクオリティが求められます。その継続がお客さんを繋ぎ、リピーターを増やしていく。たねやはその王道を歩んでいるのです。
 しかし、和菓子屋がなぜ洋菓子にも手を広げるのか。和菓子屋さんの家系で、親から子へ継承しながらも、親は和菓子・子は洋菓子と転向する例がよくあります。しかし、「たねや」の場合は事情が違うようで、明治から昭和初期にかけて近江八幡に暮らしたアメリカ人の助言によって始まっているのが特徴です。近江八幡に大きな影響と功績を残した、このアメリカ人。弊ブログでも後ほど取り上げます。

 たねやの魅力をたどるだけで、お腹一杯になってしまいますが、もう少し近江八幡の魅力に迫ってみましょう(続く)。

【参考】
テレビ東京「カンブリア宮殿」2012年8月16日放送
たねや社長 山本 昌仁氏
http://www.tv-tokyo.co.jp/cambria/backnumber/20120816.html

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四半世紀を迎えた「平成」
 平成25年1月8日。平成の時代が25年を迎えました。1989年(昭和64年)1月7日に昭和天皇が崩御されて、元号が『昭和』から『平成』に改元されて四半世紀を経過したのです。1週間で終わった幻の昭和64年「昭和最後の日」、私は小学校6年でした。不謹慎ながら、平成は大正時代同様に短くならないかと思ったこともありますが、どんな時代になるのだろうという、ワクワク感を持って平成元年1月8日を迎えたことを良く覚えています。
 既に低成長の時代に入っていた平成の日本は「昭和の清算」と共に「負の時代」でもありました。翌年にバブルが崩壊してからは、「バブル崩壊の影響で」なんて口実も頻繁に聞かれました。携帯電話やインターネットなど、当時は普及していないモノや無いモノが現在は生活必需品になっているところ、時代の流れを感じずにはいられません。
 最近、「失われた20年」という表現を良く見かけます。思えば、バブルの余韻があった始めの2年間とリーマンショック直前の2年程を除けば、平成時代の日本経済は沈んだままでした。平成元年の年末には東証一部平均株価が3万8915円を記録したこともあったそうです。今や1万円を突破した時点で大騒ぎするところ、隔世の感がありますね。不況は原因を究明し、国の構造を改めることで克服するものです。バブル崩壊後の日本では借金・設備・雇用という、3つの過剰要素がありました。
 そのうち、企業の借金の解消と設備の更新は「失われた20年」のなかで進められてきました。しかし、雇用については団塊世代の引退を迎え、世代交代進められた現在でも克服できないままでいます。その背景には成果主義の台頭と非正規雇用制度の氾濫に代表される、社会が「育てる」環境を「コスト」の名の元に軽視してしまった結果であると思います。人口減少時代を迎え、製造業は海外に逃亡する売国奴企業も現れるなかで、国内の非正規労働者はこのまま救済されずに捨てられてしまわないか危惧しています。これは国内の税収や福祉など相互扶助制度を破壊し、最終的には日本が崩壊してしまわないようにするためには、再び社会が相互で「育てる」ことが必要じゃないでしょうか。大企業の社員と公務員が「勝ち組」としてのさばる愚かな時代を一刻も早く打開するためには、挙国一致体制で取り組まねばなりません。
 平成になって、総理大臣は竹下登氏から今度の安倍晋三氏まで延べ18人。細切れの様な変遷により、平均すると1人1.38年とのこと。やはり、異常な状態と言わざるを得ません。政治主導とか言いながらも何度も挫折を繰り返す、リーダー不在の迷走が日本再建をより遠ざけています。
 このままでは次の世代に継承する資格があるのか、すべての日本国民が一度考えた方が良い。経済政策や震災復興など、きっかけになるモノはいくらでも転がっています。いい加減に流れを変えましょう。いつまでも「胎動」「萌芽」など、大本営発表で誤魔化すのはやめましょう。そして、国民が汗を流し国を建て直して、平成を復活の時代に流れを改めた上で次の世代にバトンを渡そうじゃありませんか。

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