「東美濃ナンバー」問題の特集、第3回です。
今回は東濃の5市(多治見・土岐・瑞浪・恵那・中津川)と共に無理矢理「東美濃ナンバー」のエリアに組み込まれてしまった可児市と御嵩町のお話です。 どうして、可児市と御嵩町は「東美濃ナンバー」のエリアに組み込まれてしまったのでしょうか?この謎に迫ります。
2.明治以来の可児郡帰属問題 可児市と御嵩町は現在の岐阜県行政では関市・美濃加茂市などと同じカテゴリー「中濃地方」に組み込まれています。現在も電話帳「タウンページ」では岐阜市などと一緒に掲載(岐阜県美濃地方では東濃だけ別冊)、岐阜新聞の地域版は「中濃地域」です。しかし、可児市と御嵩町は木曽川を挟んで他の中濃地方(八百津町は除く)と分離していることから、中濃地方でも独自の歴史を歩んでいます。また、木曽川を挟んでいることから岐阜市方面へのつながりが中濃地方でも例外的に希薄であるのは、隣接する東濃地方と性質が似ています。また、東濃地方とのつながりも伝統的に深く、現在の可児市に最初に鉄道が開通したのは多治見からの鉄道(現在のJR太多線及び名鉄広見線の一部)でした。また、バスは多治見市にある東濃鉄道の管轄だったり、御嵩町には東濃高校・東濃実業高校という学校もあります。つまり、可児市と御嵩町は中濃地方の側面と、東濃地方の側面を併せ持つ、複雑な境界線上にあるのです。 中濃と東濃の間で複雑に絡む可児市と御嵩町ですが、どうしてこんなことになってしまったのか、それはおよそ150年前の明治初頭に話はさかのぼります。
1872年(明治4年)、明治新政府による廃藩置県により、岐阜県が誕生します。この当時の岐阜県は現在の美濃地方のみ。東西に長い県でした(飛騨地方は現在の長野県松本を中心とする筑摩県の一部に組み込まれた。飛騨地方が岐阜県に合併し、現在の岐阜県の形になったのは1876年(明治9年)である)。発足当時の岐阜県が悩んだのは東西に広い岐阜県を美濃でもかなり西の方にある岐阜から統治することの難しさ。 その最たるものは木曽川の先に広がる、現在の東濃地方と可児市・御嵩町の存在でした。当時は、まだ鉄道もありません。木曽川に橋を架ける技術もありません。一応、旧美濃国。五街道の一つ・中山道でつながっているのですが、それを分断する木曽川は江戸時代の馬子唄に『木曾のかけはし、太田の渡し、碓氷峠がなくばよい』と唄われるほどの交通の難所で、この難所を避けるように恵那で中山道から分岐する、現在の国道19号線に沿って善光寺街道(下街道)が整備され、岐阜よりも名古屋方面への往来が既にありました。
 そんな東濃・可児に岐阜県は自治行政を始めます。まず、岐阜県は東濃の行政上の中心をどこに置くかで悩みます。県庁のある岐阜に加え、西濃(大垣)・中濃(関)・飛騨(高山)と他の地域には拠点となる街があるのに、東濃・可児には拠点となるべき城下町も寺内町も門前町も無かったのです。現在の可児市は当時純農村。現在の多治見の大半のエリアや土岐の西半分は江戸時代、尾張藩領。岐阜の力が及ばない状況でした。大井(恵那)や中津(中津川)は遠すぎて、岐阜との日常的な往来ができない。そこで、岐阜まで中山道で直接往来が容易な場所で、そこを中継点として東濃各地へのアクセスが比較的良い、中山道の宿場町だった「御嵩」を東濃地方の行政上の中心にする選択をしました。そして、当時の可児郡・土岐郡を岐阜県第11大区という行政管轄カテゴリにまとめたのです。つまり、明治当初の岐阜県は、現在の可児市・御嵩町を東濃地方の一部とみなしていたのです。
 東濃の拠点となった御嵩には、続々と行政施設が開設されます。 1874年(明治9年)、御嵩に東濃(土岐郡・恵那郡)と可児(可児郡)を管轄する裁判所(裁判支庁)が設置されました。なんと、昭和戦前まで東濃・可児唯一の裁判所として君臨します。「裁判所が管轄の北西はずれにあって遠すぎる(怒)!」と多治見と中津川に裁判所を設置するように国会で提議されるようになるのは、なんと戦後の話。そして、多治見と中津川に開設されたのは1947年(昭和22年)だったのです。現在も岐阜地方裁判所御嵩支部として、可児・加茂地区の司法機関として機能しています。
 その隣には岐阜地方検察庁御嵩支部。
 さらに隣には、岐阜刑務所御嵩拘置支所があり、この一帯は御嵩が東濃の行政上の中心だった名残を現在も残しています。
 1896年(明治29年)、岐阜県は県内4番目の高等教育機関として岐阜県尋常中学校東濃分校(現:岐阜県立東濃高校)を設立。その後、東濃尋常中学校・東濃中学校と改称され、約25年東濃・可児唯一の高等教育機関として君臨します。地元に限らず、遠路はるばる恵那から中山道を歩いて通った強者もいたそうです。ちなみに、恵那に旧制中学の岐阜県恵那中学校(現:岐阜県立恵那高校)が創立したのは1922年(大正11年)、多治見に多治見市立多治見中学校(現:岐阜県立多治見高校)が創立したのは、なんと1940年(昭和15年)まで待たねばなりませんでした。 今となっては考えられませんが、驚くべき御嵩町の拠点性。岐阜県行政の力の入れようを感じます。しかし、岐阜県の目論見は愛知県との県境に風穴が開くことで、根底から覆えされてしまいます。 話が長くなってしまいました。一旦、ここで切ります。次回は歴史の潮流の中で翻弄されていく可児郡の行方と東濃地方との関わりについて、お話しします(続く)。
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