名古屋・広隆堂ブログ
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広隆堂(こうりゅうどう)

Author:広隆堂(こうりゅうどう)
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1976年10月26日名古屋市千種区生まれ。小学校卒業まで名古屋で暮らし、中学・高校時代を岐阜の山奥で過ごす。都会へあこがれ、大学卒業後、名古屋へ舞い戻る。乗り物と旅行、そして中日ドラゴンズを心から愛する。
 子どもの頃からモノ集めに凝っていたが、最近はポイント集めに凝っており、特に航空会社(ANA・JAL)のマイル集めに熱中している。
 人と同じ事をするのが苦手。協調性が無いせいもあって集団で浮きやすい。できないことを無理にするのは疲れるので、典型的なオレ流・ワンマンだとよく言われながら、迷惑をかけないように好き勝手にやっています。
【「広隆堂」の由来】
 「こうりゅうどう」と読んでください。名前は本名の姓名から一字ずつ頂き、人が集う意味のある字「堂」を加えたものです。コミュニケーションの場として活性化されることを願って名付けました。古臭い名前ですが、本人はかなり真剣に考えて付けました。

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終戦の日
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 8月15日。今年も67回目の終戦の日を迎えました。
 戦争を体験された方の高齢化により、後世に残すべき当時の記憶が薄れつつあり、テレビなどメディアでの終戦特集企画も年々縮小されているように思います。しかし、現在の日本があるのも、悲惨な戦争を乗り越えてきた先人たちの苦労や夢破れし若人の希望の上に成り立っていることを決して忘れてはなりません。
 現代の生きる私たちも先の戦争と全く無関係ではありません。なぜなら、戦争の記憶も何もない我々の世代も先人たちが生き延びたからこそ、今の命があるからです。また、日本各地に未だに不発弾など戦争の痕跡は残っています。今回は、昨年大みそかに行ってきました東京の靖国神社の画像と共に終戦の日を考えます。
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 先の戦争については、弊ブログでも以前取り上げたことがあります。

不発弾の撤去作業
http://kouryudo.blog61.fc2.com/blog-entry-937.html

 私の父の実家は名古屋市大曽根から矢田にかけてあった三菱の軍需工場から1km程のところにあり、戦争中は名古屋市内でも特に徹底的に爆弾が落ちた地域の一つです。当時1歳だった父を抱えて戦火を逃げた祖父母。私は写真でしか見たことがありませんが感謝しております。
 そして、昨年靖国神社を訪ねた理由は、毎年この頃になると話題になる靖国神社とはどんなところかということと、母方の祖父に縁があったためです。
DSCN0411_convert_20120819010304.jpg
 靖国神社の最寄り駅は地下鉄九段下駅。境内は思った以上に広大で、第一鳥居から本殿の前までしっかり歩きます。大鳥居が東に向いている神社は非常に珍しいそうです。
 まず現れる銅像は大村益次郎。幕末期の長州藩の医師、西洋学者、兵学者として、明治維新の十傑の一人に数えられています。長州征討と戊辰戦争で長州藩兵を指揮した勝利の立役者。太政官制において軍務を統括した兵部省における初代の大輔(次官)を務め、事実上の日本陸軍の創始者、あるいは陸軍建設の祖ともいわれています。
 大村は戊辰戦争の戦没者を祀る「東京招魂社」の建立に奔走、ここをその場所として決定し建立。明治12年(1879年)に明治天皇が命名した靖国神社に改称され、現在に至っています。
 なお、この銅像は明治26年(1893年)に造られた日本初の西洋式銅像なのだそうです。戊辰戦争の際、司令官として彰義隊が立て籠る上野寛永寺を見つめていた姿を模したもの。因みに像の下にある顕彰文の揮毫は三条実美のもの。
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 通り一つ挟んで第二鳥居に突入です。明治20年(1887年)の建立で、大阪砲兵工廠で鋳造された青銅製。現存の靖国神社の全4基の鳥居の内では最も古いものであり、また青銅製の鳥居としては日本一の大きさを誇っているそうです。
 そして、奥には拝殿が見えてきました。ここは「靖国で会おう」を合言葉に闘い、亡くなられた英霊方との約束の地です。そして、国に残った人達が、英霊を御迎えし祀ると約束した地でもあります。
 あんなこと、こんなこと、いろいろやってみたい。しかし、そのワガママは許されないご時世で、夢や希望を絶ち、国のために戦った先人達。そして、見送った人々の悲しさ。戦争は一部の権力者の暴走によって、すべての人に犠牲を払うものだったのです。
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 私の母方の祖父は元軍人で、その兄は戦没者です。終戦後、中国から日本へ引き揚げる船上で亡くなったと聞きます。祖国の土が踏めなかったことは、さぞ無念だったでしょう。祖父の兄もきっとここへやって来て、当時の仲間たちと再会したに違いありません。生き残った祖父も、数年前から認知症を患っておりますが、兄弟のことですから忘れることはなかったと思います。

 拝殿の近くにある「遊就館」。明治維新から太平洋戦争終戦までの日本側から見た戦争に関する展示が行われており、靖国神社を語るにあたって欠かせない施設です。元々は、前述の大村益次郎のところで触れたとおり、1882年幕末維新の新政府軍(官軍)戦没者ゆかりの品を展示する目的で開館しています。1923年(大正12年)の関東大震災で損壊。翌年に仮館を建設し、1932年(昭和7年)に再建。日中戦争・第二次世界大戦中は陸軍省の貸出しで戦地で収集した国民革命軍や連合軍の兵器の展示も行われ、戦争の色を濃くする展示館となっていきます。
 敗戦により閉館。靖国神社は遊就館の修理を条件に、1947年(昭和22年)11月に社屋を進駐軍に接収された富国生命保険と月額5万円(当時)で賃貸契約が結ばれ、同社の「九段本社」として使用。1961年(昭和36年)に遊就館に隣接する靖国会館の一部を「宝物遺品館」として再開。1980年(昭和55年)に富国生命保険が立退きの際、当時の社長が靖国神社の経済的窮状を財界有力者に訴えた。1985年(昭和60年)7月13日に施設の改修が終わり遊就館として再開。その後、建物の老朽化と展示スペースの不足から創立百三十年記念事業の一環として本館改修と新館増築の工事が行なわれた。その際、野外の展示資料も館内に収納展示され、2002年(平成14年)7月13日に再公開した。
DSCN0421_convert_20120819012740.jpg

 この施設については「戦争を美化している」などの理由で賛否両論ありますが、間違いないのは、兵士達は自身の意思とは関係無く、出陣の時にはお国の為に万歳三唱で盛大に送り出され、国家の為という理由で「死の正当化」を受け入れる孤独な選択を強いられていたことです。彼らは何のために死ななければならなかったのか。彼らが自らの命と引き換えにしてまで守ろうとした日本。これがその日本の姿なのかと。先の大戦で亡くなった多くの方々に申し訳ない気持ちになります。
 今回、遊就館は年末年始休館のため見られませんでした。このようなモノの見方もあるということで、機会があれば見に行きたいと思っています。
 
 今ある生命は先人達のおかげです。その生命を頂いたことに感謝し、大切にしよう。過去の事象は変えられない。でも、明日は変えられるのです。
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