名古屋・広隆堂ブログ
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広隆堂(こうりゅうどう)

Author:広隆堂(こうりゅうどう)
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1976年10月26日名古屋市千種区生まれ。小学校卒業まで名古屋で暮らし、中学・高校時代を岐阜の山奥で過ごす。都会へあこがれ、大学卒業後、名古屋へ舞い戻る。乗り物と旅行、そして中日ドラゴンズを心から愛する。
 子どもの頃からモノ集めに凝っていたが、最近はポイント集めに凝っており、特に航空会社(ANA・JAL)のマイル集めに熱中している。
 人と同じ事をするのが苦手。協調性が無いせいもあって集団で浮きやすい。できないことを無理にするのは疲れるので、典型的なオレ流・ワンマンだとよく言われながら、迷惑をかけないように好き勝手にやっています。
【「広隆堂」の由来】
 「こうりゅうどう」と読んでください。名前は本名の姓名から一字ずつ頂き、人が集う意味のある字「堂」を加えたものです。コミュニケーションの場として活性化されることを願って名付けました。古臭い名前ですが、本人はかなり真剣に考えて付けました。

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日帰り長野電鉄屋代線惜別の旅7・長野市松代
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 3月20日に行ってきました、長野電鉄屋代線のレポート第7弾です。せっかくですので、屋代線沿線唯一の観光地である松代を街歩きしてみました。
 松代は戦国時代から、江戸・明治・大正、戦前戦中に至るまで、それぞれの歴史文化がまるで地層のようにぎっしり積み重なった街です。特に江戸時代に真田信之が江戸幕府の命により上田から松代に移封され、松代藩初代藩主となって以来250年間、真田十万石の城下町として真田氏が十代にわたって統治してきた歴史があります。そのため、松代城、真田邸、文武学校などの文化遺産や歴史的まち並み、そして真田の伝統文化が今日まで色濃く残っています。長野市が最近になって松代地区の観光化に力を入れ出したようで、街並みの整備が進んでいます。
 画像は文武学校。江戸時代末期に藩士子弟の学問・武芸の奨励のために建てられた藩校(学校)。ここでは文学や武術のほかに、西洋の軍学などの授業も行われた。建物は創建時の姿を現在に伝える貴重な遺構で、1953年に国の史跡に指定されています。
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 こちらは象山神社。松代出身で幕末の学者である佐久間象山を祀り、学問の神・知恵の神として知られます。この佐久間象山、6才の時から学問・武術を習い、20才で詩文・経書・武術等免許される程の秀才だったそうです。経書や漢学を教えながらも幕府に仕え、時には上申することもあったそうです。
 41歳の時、江戸木挽町に塾を開き、勝海舟・坂本龍馬・吉田松陰・橋本左内など維新の英才を輩出、ぺリー来航国論沸騰の際、軍議役として横浜警備に当たっていたそうです。
 54才元治元年(1864)幕府の命で京都へ上り、将軍家茂・一橋慶喜・山階宮・中川宮に公武合体開国を説いて活躍するも、三条木屋町で尊攘派の凶刃に倒れ、尊皇開国(明治維新)を迎えられずにこの世を去ります。
 この神社は没後50年を機に昭和13年に造られたそうです。
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 そして、松代を代表する観光スポットの1つが「松代大本営」の地下壕跡です。太平洋戦争以前より、海岸から近い東京は防衛機能が弱いと考えられていました。そのため、本土決戦を想定し海岸から離れた場所への中枢機能移転計画を旧日本陸軍が進めていました。1944年7月にサイパン陥落後、本土爆撃と本土決戦が現実の問題になり、当時の東條内閣は松代への皇居、大本営、その他重要政府機関の移転のための施設工事を決めました。
 どうして松代だったのか。その理由は、
1.本州の陸地の最も幅の広いところにあり、近くに飛行場(長野飛行場)がある。
2.固い岩盤で掘削に適し、10t爆弾にも耐える。
3.山に囲まれていて、地下工事をするのに十分な面積を持ち、広い平野がある。
4.長野県は労働力が豊か。
5.長野県の人は心が純朴で秘密が守られる。
6.信州は神州に通じ、品格もある。
という理由で採用されたそうです。あと、「東京から近い位置にある」これも重要だったと思います。
 松代地区を取り囲む象山、舞鶴山、皆神山に3つの地下壕を掘削し、象山には政府・日本放送協会・中央電話局。舞鶴山には天皇御座所・皇后御座所・宮内省(現在の宮内庁)。皆神山には備蓄庫の建設が予定されました。
 本当は舞鶴山へ行きたかったのですが、松代駅のレンタサイクルが出払っており、駅から歩いて行ける距離にある象山へ向かいました。
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 象山地下壕は松代地区の南西部にあり、松代駅から徒歩20分ほどのところにあります。松代大本営建設の為、土地の買収は役場を通じて軍が行い、松代地区の該当する一帯500戸足らずのうち130戸が立ち退き対象となりました。1944年11月11日、象山にて最初の発破が行われ、松代大本営の工事が開始されました。工事は岩盤が強固だったのでダイナマイトで発破し、崩した石屑をトロッコなどを使った人海戦術で運び出すという方法で行われたそうです。工事は地元住民を中心に日本人労働者が徴用されましたが、徴兵や満蒙開拓(特に長野県は多い)で労働力不足になったため、学徒勤労動員や国民学校児童まで狩り出された。それでも追い付かないことから、末期には朝鮮半島から朝鮮人を動員し、落盤事故や栄養失調による犠牲者や脱走者も出してしまいました。最盛期の1945年4月頃は日本人・朝鮮人1万人が作業に従事する突貫工事でしたが、1945年8月15日の敗戦により、進捗度75%の段階で工事は中止されてしまいました。
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 戦後、地震観測所として活用された舞鶴山地下壕に対し、こちらは活用されることなく放置されていたところ、地元の私立篠ノ井旭高校(現:長野俊英高校)の呼びかけから、1990年から長野市が整備した上で一部を公開するようになったそうです。地下壕は入場料無料で見学ができます。来場者の統計でも採っているのか、なぜか在住都道府県名を聞かれた後、壕へはヘルメットをかぶって欲しいと注意があり、まさに探検隊状態で壕に突撃します。入口部分は天井も低く窮屈な姿勢で入らねばなりませんが、しばらく進むと地下壕の中が広くなりました。
 地下壕は総延長約6km。碁盤の目のように掘り抜かれているそうです。公開されているのはそのうちの500mほどですが、内部は素掘りのまま。トロッコの跡など建設当時のモノがいくつも残されています。
 しかし、歩きながら思いました。ここまでしても本土決戦を考えていた軍部の愚かさを。一部の権力者が国民を巻き込んで破滅に向かうのは、この国では時代を問わず十八番芸なのかも。
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 松代は戦国時代から江戸・明治・大正、戦前戦中に至るまで、各時代で歴史の舞台となった街であることが良く分かりました。戦後行われた「昭和の大合併」で長野市の一部となり、長野市中心部と犀川・千曲川で遮られた位置関係もあり、長野市の郊外地域となって孤立した松代の拠点性は薄れてきました。
 しかし、平成になって道路網も整備され、長野市も松代地区に光を当て始めました。松代は長年培ってきた地域の歴史を武器に観光で立ち上がろうとしています(画像は松代城址脇を走る屋代線車両)。
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