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名古屋・広隆堂ブログ
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広隆堂(こうりゅうどう)

Author:広隆堂(こうりゅうどう)
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1976年10月26日名古屋市千種区生まれ。小学校卒業まで名古屋で暮らし、中学・高校時代を岐阜の山奥で過ごす。都会へあこがれ、大学卒業後、名古屋へ舞い戻る。乗り物と旅行、そして中日ドラゴンズを心から愛する。
 子どもの頃からモノ集めに凝っていたが、最近はポイント集めに凝っており、特に航空会社(ANA・JAL)のマイル集めに熱中している。
 人と同じ事をするのが苦手。協調性が無いせいもあって集団で浮きやすい。できないことを無理にするのは疲れるので、典型的なオレ流・ワンマンだとよく言われながら、迷惑をかけないように好き勝手にやっています。
【「広隆堂」の由来】
 「こうりゅうどう」と読んでください。名前は本名の姓名から一字ずつ頂き、人が集う意味のある字「堂」を加えたものです。コミュニケーションの場として活性化されることを願って名付けました。古臭い名前ですが、本人はかなり真剣に考えて付けました。

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東美濃ナンバーを考える4
 「東美濃ナンバー」問題の特集、第4回です。
 可児市と御嵩町は「東美濃ナンバー」のエリアに組み込まれてしまったのか?明治以来の可児郡帰属問題の続きです。

 東濃地方の行政上の中心として発展してきた御嵩ですが、急速な近代化の波の呑み込まれてしまいます。その最大の波は鉄道でした。
 日本の官設鉄道(国鉄)が東京と京都を結ぶ目的で、鉄道の敷設計画が浮上します。東海道ルート化中山道ルートかで検討が行われた末に、当時明治政府の建築師長だったお雇い外国人のリチャード・ボイルは1876年(明治9年)9月に提出した上申書で、東西連絡の幹線鉄道を中山道経由とすることを推奨します。東海道は全国でも最良と言ってよい交通事情であったのに対し、中山道は道路事情が悪く、ここに鉄道を建設すれば広大な内陸部を開発でき、また東西を結ぶだけでなく、支線を加えることで太平洋と日本海を結ぶこともできるためだったそうです。
 こうして誕生した中山道幹線と呼ばれる鉄道敷設計画が進められます。ちなみに東濃地方では岐阜から東に進んだ線路は、現在の美濃加茂市の西のはずれで木曽川を渡り、可児川河口(現在の可児市土田あたり)から可児川沿いに進み、山を越えて多治見市の虎渓山永保寺近くから土岐川沿いを進み、高山(現在の土岐市土岐津町)を経て、山を越えて大井(現在の恵那市)・中津(現在の中津川市)を結ぶコースを計画します。
 東西から工事の始まった中山道幹線ですが、当初から碓氷峠および木曽川・長良川・揖斐川など大河川は難工事で建設費がかさみ工期は長引き、開業後も列車の速度が遅く運転費用が増大することが判明します。そこで1886年(明治19年)に東京と京都を結ぶ幹線鉄道としては東海道本線の建設を行う方針に変更されてしまいます。
 幻となった中山道幹線ですが、名古屋から長野を結ぶ鉄道敷設計画は再浮上します。鉄道の誘致合戦が各地で行われた結果、最も工事が容易な現在のJR中央西線のルートで建設が始まります。当時は山賊も出てかなりの険しさであった愛知・岐阜県境の内津峠を避けるようにトンネルで山を貫き、1900年(明治33年)、名古屋駅~多治見駅間が開業。1902年(明治35年)には多治見駅~中津駅間が延伸開業。これにより、中山道に依存していた東濃地方の交通事情が一変すると共に、行政上の中心だった御嵩は鉄道から遠く離れ、中山道の衰退に伴い、その拠点性を失います。
 御嵩など可児郡地域も負けていません。地元有力者が資金を出し合い多治見から御嵩を結ぶ鉄道計画を進めます。1918年(大正7年)に新多治見~広見間を結ぶ東濃鉄道(現在の多治見市に本社のあるバス会社とは別会社)が開業。1920年(大正9年)には広見~御嵩間を延伸し、御嵩にも鉄道がやって来ます。しかし、官設鉄道である中央線と軽便鉄道である東濃鉄道の格差は歴然で、東濃の各地と直通できないことから、徐々に孤立し始めます。更に1926年(大正15年)新多治見~広見間が国有化され、国鉄太多線となり、多治見から御嵩への鉄道は細切れになってしまいます。
 実は現在の多治見市の土岐川から北の地域(現在の多治見市中心市街地)は、昭和の初めまでは可児郡でした。多治見への直通鉄道も分断されると、太多線沿いの区域は多治見への流動が顕著となり、同じ可児郡内でも生活圏が御嵩寄りの地域と多治見寄りの地域に分断され、御嵩を中心とした可児郡としての一体性が維持できなくなります。可児郡と土岐川を挟んだ向かいの土岐郡多治見町(現在の多治見市旧市街地)が美濃焼の集積地として急速に発展すると、可児郡南部の町村が動きます。昭和9年(1934年)に最南端の豊岡町(現在のJR多治見駅付近)が土岐郡多治見町に編入、1940年(昭和15年) 市制施行し、多治見市となります。昭和19年(1944年)隣接する小泉村・池田村も多治見市に編入します。この動きは戦後になっても続き、隣の姫治村でも多治見市への合併論議が浮上しますが、村内で多治見市合併派と可児郡存続派で分裂、大混乱の末に自治大臣と岐阜県の仲介により、1960年(昭和35年)姫治村を分村し、一部が多治見市へ合併します。現在も多治見市と可児市の境界線がJR太多線沿いで複雑になっているのはそのためです。
 次々と町村が離脱していった可児郡。次々と多治見・中津川に行政施設も造られ、御嵩の拠点性が失われました。同じ東濃でも中央線沿いの地域と隔絶されてしまった可児郡。そこに手を差し伸べてきたのは、木曽川の橋も架かり、交流が盛んとなった対岸である美濃加茂市と加茂郡でした。美濃加茂市は元は加茂郡で木曽川沿い。同じ中濃でも元武儀郡で長良川沿いの関市や美濃市と事情が異なることから孤立していました。すると、岐阜県行政も木曽川を挟んだ可児と加茂を広域で一体的に扱うようになります。こうして、現在の可児市と御嵩町は中濃地区の一部「可茂」として位置付けられるようになったのです。

 今回の東美濃ナンバーで可児市と御嵩町がエリアに組み込まれたのは、人口が多いかどうかとか、登録自動車台数基準突破目的のネタとか、東美濃ナンバー賛同企業筆頭であるバローの店舗網が充実しているからとかではなく、可児郡が「東濃」地方の一部であるという、明治初頭からの地域区分の復古活動の一環なのではないかと思うのです。
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この記事に対するコメント

先日はご挨拶もなしに投稿しましたこと、申し訳ございません。私は東濃でも「化外の地」のように見られている(ように思う)瑞浪市の住民です。今回の記事を興味深く拝見しました。
 記事を読みながら思い出したのは「自分が県立高校受験のとき、可児市が学区に加わったので学区内の入試状況が変わったんだなぁ」ということです。当時可児市は桜ヶ丘に宅地を造成中で、名古屋に住んでいた人々が桜ヶ丘に大量入居し、名古屋市と東濃では「教育格差」があったので(現在はどうか分かりませんが)、名古屋で中程度の成績の生徒が、東濃学区内ではそれなりの進学校に入学できてしまう状況でした。
 閑話休題。現在の商工会議所の役員や首長が若い頃は「昭和の大合併」前後だったと思いますので、住所が「土岐郡XX町XX村」とか「恵那郡XX町XX村」でも抵抗なく受け入れられるため「土岐郡に恵那郡、そこに可児郡が加わるのだろう」との思いから東美濃ナンバーという発想も生まれるのかもしれません。しかし、昭和の大合併があったことすら知らない、また今まで瑞浪市民として生きてきた私にとっては、どうも違和感が残ります。まぁこれは邪推に過ぎませんが。
【2018/01/17 19:16】 URL | 南亭東四楼 #- [ 編集]

Re: タイトルなし
>南亭東四楼さん
 可児市・御嵩町を東濃に組み込みたいのは、岐阜県の行政管轄を経済圏で分割をする上で、半世紀以上続く「ねじれ」を少しでも修復させる目的があるかと思います。しかし、実態は「V」グループの意向が強いのかなと思います。

 高校受験の件については、概ね同意です。学力・体格格差は私が中学生だった約30年前もありました。特に見聞が狭い。私は名古屋から土岐の集落へ転校してしまったので、そのギャップを非常に強く感じました。土岐の子供は背も低く、多治見の中学校と部活動で試合となると、団地街の北稜中学校や南が丘中学校の子と平均身長が10㎝近い差がありました。まさか、その子と高校で机を同じくして過ごすとは思いませんでしたが。学力については情報の多様化や、東濃にも進学塾が増えてきたので、幾分改善しているかと思います。夜の9時半過ぎの多治見駅には電車で塾に通う子供の姿が見られます。岐阜県の高校入試では、進学校の定員は子供の減少にかかわらず、昔と変わっていないので、かえって入学しやすいのでは?と思われるのですが、部活動が強制である公立中学校を嫌って私学へお受験する小学生も少なくないようです。
【2018/01/21 22:27】 URL | 広隆堂@管理人 #01.nD2NU [ 編集]


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