名古屋・広隆堂ブログ
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広隆堂(こうりゅうどう)

Author:広隆堂(こうりゅうどう)
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1976年10月26日名古屋市千種区生まれ。小学校卒業まで名古屋で暮らし、中学・高校時代を岐阜の山奥で過ごす。都会へあこがれ、大学卒業後、名古屋へ舞い戻る。乗り物と旅行、そして中日ドラゴンズを心から愛する。
 子どもの頃からモノ集めに凝っていたが、最近はポイント集めに凝っており、特に航空会社(ANA・JAL)のマイル集めに熱中している。
 人と同じ事をするのが苦手。協調性が無いせいもあって集団で浮きやすい。できないことを無理にするのは疲れるので、典型的なオレ流・ワンマンだとよく言われながら、迷惑をかけないように好き勝手にやっています。
【「広隆堂」の由来】
 「こうりゅうどう」と読んでください。名前は本名の姓名から一字ずつ頂き、人が集う意味のある字「堂」を加えたものです。コミュニケーションの場として活性化されることを願って名付けました。古臭い名前ですが、本人はかなり真剣に考えて付けました。

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さようなら、輪中の渡し船2
 木曽川・長良川の渡船横断紀行の第2弾です。
SSCN8682.jpg
 それでは、日原渡船に乗り込みます。
SSCN8683.jpg
 船頭さんと機関士さんは地元の方。お客さんは私と弥富のオッサン、そして観光目的の家族連れ4名と犬1匹。
 日原渡船は愛知県管轄の木曽川航路と岐阜県管轄の長良川航路の2航路で構成されており、日原渡船木曽川航路は全長752mで、今回廃止となる渡船では最長距離の航路です。愛西市塩田町から愛知・岐阜県境の中州までを結びます。「日原」とは岐阜県海津市側の地名で、愛知県側の地名を用いた「塩田の渡し」という通称もあります。

 まっすぐ行くかと思いきや、一旦下流に下ってからやや上流にある中州へ向かいます。航路は「く」の字になっており、水面にはブイが浮いており航路があらかじめ決まっているようです。船頭さん曰く航路は浚渫しており、それ以外の経路を航行すると引き潮で水位が低い場合は川底に乗りあげてしまうとのこと。ダムなどの利水により木曽川の水位が低くなったものの土砂の堆積もあって、河口から近いこともあって潮の満ち引きが重要になっているようです。
SSCN8684.jpg
 もう一つ、愛知県側の木曽川航路には特徴があります。それは、この辺りの木曽川は明治以降に造られたもので、それまでは農地だったのです。なぜ、貴重な農地を犠牲にする必要があったのか、そこでこの地域が歩んできた木曽三川との治水の歴史をたどる必要があります。
20110407123033.jpg
 現在、この辺りの木曽川と長良川は中堤を挟んで接していますが、かつては岐阜県羽島市桑原町付近で木曽川と長良川が合流、その後は現在の長良川の経路をたどり、その下流(愛西市・旧立田村福原)で揖斐川に合流します。したがって、この地域では洪水が起こりやすく、特に木曽川に比べ2.4mも川床の低い揖斐川沿いでは洪水が絶えませんでした。
 そこでまず行われたのが、宝暦4年(1754)から翌年にかけ薩摩藩の平田靱負によって難工事の末に完成した「宝暦治水工事」です。この工事では、木曽川と揖斐川を分流するために高須輪中(現在の岐阜県海津市海津町)の南端・油島から長島輪中(現在の三重県桑名市長島町)に築堤して分流しました。それが「千本松原」として現在も残っています。
 次に行われたのが、お雇い外国人技師・オランダ人のデ・レーケ(1842-1913)による明治の「三川分流」工事です。宝暦治水では揖斐川の分流を実現しましたが、木曽・長良の両河川は網の目の様な状態のままでした。現在の愛西市の旧八開村区域や旧立田村区域は、東側に佐屋川という木曽川の放水路の役割を果たす川があったため、津島方面と陸続きではなく「立田輪中」という輪中の島でしたが、その佐屋川が長年に渡る土砂流入で川底が上がり放水路としての役割が果たせなくなり、その解決策として佐屋川を廃川とし木曽川・長良川を分流する必要が出てきました。
 そこで、長良川は高須輪中の一部を開削し移設、木曽川については土地に余裕のある愛知県側に人工河川(現在の木曽川)を建設することになりました。立田村では村の1/3を川底に沈める苦渋の選択を行い、明治20年(1887)に着工、明治45年(1912)に完成しました。これにより、この地域の洪水被害は激減したのです。
 厳密にいえば、日原渡船の下流にあるもう一つの渡船・葛木渡船場付近からがその区域だそうですが、この渡船の水面下には、かつての村や農地があって人々の暮らしがあったわけで、現在の治水も先人たちの大きな犠牲の上に成り立っているのだと思うと感慨深いものがあります。
 右図が明治の分流工事前(黒字)と現在(青字)との河道の違い。見にくい地図で恐縮ですが、いかに大きな改修工事だったかが分かります(「海津町史」より)。
SSCN8685.jpg
 地元に残る1850年作成の「塩田村絵図」という古文書に記録があり、江戸時代から渡船があったことを示しています。この渡船は長い間私営の有料航路であり運営は耕地の少ない農民が行っていました。明治の三川分流工事後も木曽川・長良川の双方を担い、木曽川担当の人は中堤に小屋を建てて夜間の運航にも対応していたそうです。大正11年に渡船場まで県道に組み込まれてから渡船の県営化を求める声が出ていたものの、県営に移管されたのは昭和30年からのことだそうです。
 県営移管後は日の出から日の入りまでの運行に短縮されたが運賃は無料となり、愛知県側の塩田が木曽川、岐阜県側の日原が長良川の渡船運営を行い、合計50戸ほどの20歳以上60歳未満の人が県と契約を行って、1日交替で船頭を行っていたそうです。末期の塩田では6名が担い、2人ずつ毎日交代で渡船を守って来ました。毎週水・土・日曜日の運航になったのは平成22年4月からだそうです。岐阜県側の運航が予約制になって自由な横断ができなくなってから利用者が激減、岐阜県側に運航日を合わせたとのことです。
SSCN8686.jpg
 さて、中州に到着です。船頭さんは我々を降ろすと「次のお客さんを対岸に届け、20~30分後に戻ってくる」と言うと船を出発させました。せっかくですから、中州も散歩してみましょう。(続く)

【参考文献】
「海津町史 通史編」岐阜県海津町、「八開村史 通史編」愛知県八開村、「八開村史 民俗編」愛知県八開村
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